フリーコンテンツ vs. Googleブック検索和解案

フリーソフトウェア財団(Free Software Foundation, FSF)は去る9月8日、Google ブック検索(Google Book Search)訴訟の現状の和解案に反対する意見書を南ニューヨーク地区連邦地裁に提出した(FSFのプレスリリース意見書[PDF])。

FSFの依頼を受けて実際に意見書をまとめたのは、GNU GPLv3の策定でも主導的な役割を果たした法律顧問団体、Software Freedom Law Center(SFLC)である(SFLCのプレスリリース)。なお、今回の意見書には、Googleの元従業員でSubversionやLaunchpadの開発者、「オープンソースソフトウェアの育て方」などの著書もある著名なハッカーのカール・フォーゲル(Karl Fogel)氏もFSFと共同で名を連ねている。

ニュースとしてはすでに弊サイトで既報の問題だが、問題としてはフリーコンテンツやGoogleとの付き合い方の今後を考える上でそれなりに重要な論点を含んでいるので、改めてまとめておきたい。

フリーコンテンツの見地から見た現状の和解案の問題点

FSFやフォーゲル氏が問題視しているのは、GNU FDLや一部のクリエイティヴ・コモンズ・ライセンスのようなフリーなライセンスが適用された、フリー(自由な)コンテンツの適切な扱いが、現状の和解案においては全く考慮されていないということだ。

ごくおおざっぱに言えば、今回の和解案というのは、Googleがなにがしかの金を著作権者に払う代わり、コンテンツの利用に関してはGoogleにフリーハンドを与えるということである。多くの伝統的な書籍に関して言えば、ここでのフリーハンドとは、公開する/しないという二元的な判断に帰着するだろう。しかしフリーコンテンツの場合、そもそも公開は前提であって、問題となるのはあくまで「どう」公開するかということなのである。

フリーコンテンツの狙い

フリーソフトウェアと同様、私たちがフリーコンテンツで保証したいのは、読者が目にしたコンテンツが、単なる閲覧に留まらず、自由に再配布、改変、再利用できるということである。これを法的に保証するために、GFDLにしろ一部のクリエイティヴ・コモンズ・ライセンスにしろ、著作権をテコとして様々な条件を設定しているわけだ。

例えばGFDLは、コピーレフトの一環として、大量の「非透過的」(ようするにPDFなど編集が難しい形式の)複製物を配布する場合には、透過的複製物を一緒に配布することを要求する(第3項)。こうしたことは、少なくとも現時点のGoogle ブック検索の機能としては実装されていない。そもそも、明らかにパブリック・ドメインである古書を除き、現状ではほとんどの書籍に関してカット&ペーストはおろか、まとまった形でのデジタルデータ・ダウンロードすらも出来ないのである。ようは、「単にオンラインで読めるだけ」なのだ。

オープンソースに関する議論において、ソースコードが公開されていてもオープンソースだとは限らない、というのはよく出てくる話だが、この問題もそれに似ている。「タダで(一部)見られる」というだけでは、フリーコンテンツとは言えないのである。

具体的な問題事例

私が個人的にGoogle ブック検索で見つけた事例を二つ挙げておこう。アーノルド・ロビンズ(Arnold Robbins)氏の著作「Effective awk programming」はGNUマニュアルの一つであり、GFDL 1.1かそれ以降の下でライセンスされている。しかし本文のカット&ペーストや書籍のダウンロードは出来ず、むろん透過的複製物は提供されていない。また、前述のフォーゲル氏の著作「Producing open source software」も、クリエイティヴ・コモンズの表示-継承 2.5(CC BY-SA 2.5)ライセンスの下で公開されているにも関わらず、ダウンロード等は出来ないのである。私の理解では、これはライセンス本文の4aに抵触する。

ちなみに、これは厳密にはフリーコンテンツとは言えないが、例えばアンドリュー・M・セント・ローレント(Andrew M. St. Laurent)氏の著作「Understanding Open Source & Free Software Licensing」は、クリエイティヴ・コモンズの表示-改変禁止(Attribution-NoDerivs)ライセンス 2.0の下で発表された書籍である。CC BY-ND 2.0は、作品の「改変、変形または加工」を禁止しているが、現在Google ブック検索で表示されるコンテンツは、一部が省略されていて閲覧することができない(例えば12~13ページ。他にもある)。たまたま私はこの書籍を紙媒体で持っているのだが、確認したところ、こうした省略されたページは余白等ではなく、普通に本文が載った頁である。筆者の理解では、これはコンテンツの加工に相当するのではないかと思う。

個人的な考え

ようするに、現在Google ブック検索で公開されているフリーないしフリーに準ずるコンテンツの相当数は、ライセンス本来の狙いが満たされていないという意味で、深刻なライセンス違反の状態に置かれていると考えられるのである。と言っても、それ自体は大した問題ではない。現時点では、著者なり読者なりがGoogleに要請ないし抗議をすれば、この種の問題はライセンスに沿った形で改善されるのではないかと思われるからだ。

しかし、現状の和解案がそのまま成立した暁には、広告収入の一部の支払いを引き替えに、Googleに異議を申し立てる確実な根拠は失われてしまう。Googleの「好意」を信じるという人もいるだろうし、商業的出版社を含め、金銭さえ得られれば多くの人にとってはそれで十分かもしれない。しかし、私たちにとっては全く十分ではない。私たちは金ではなく、自分の好きなようにコンテンツを再利用する自由をしっかりと確保したいのである。よって、この問題に解決が図られない限り、私個人としても、現状の和解案に賛成することはできない。

地主としてのGoogle

それはそうと、結局のところGoogleが自社の提供するサービスで保証しようとしているのは、あくまで「オープンアクセス」に過ぎないのではないか、というのが最近の私の率直な見方である。コラムニスト、ニコラス・カー(Nicholas Carr)氏の卓抜な比喩を借りれば、Googleは私たちを「小作人」(sharecropper)として扱おうとしているのではないか、ということだ。畑へのアクセスは「オープン」だが、畑そのものの所有権や作物の大部分の所有権は私たちには無く、地主としてのGoogleの思うがまま、というわけである。ブック検索の件にしろ、クラウド・コンピューティングにしろ、そうした世界が「オープン」の美名の下に実現しようとしているのであれば、これは悲喜劇としか言いようがない。「オープン」という言葉には快い響きがあるが、そこに本質的な意味での利用者の自由が存在するとは限らないのである。