「わたしのもの」は誰が書いたのか?
ロンドンの英国肖像画ギャラリー(National Portrait Gallery)で、現在ポップアート肖像画の展覧会が開催されているという。BoingBoingの記事によると、この展覧会では写真撮影が禁止されているのだそうだ。ちなみに日本と違い、海外の美術館では(絵が傷むということでフラッシュ抜きなら)撮影は許可されていることが多い。
ご存知の方も多いだろうが、ポップアートなどと言うものは、はっきり言って、他者の著作者人格権や商標権等を侵害して初めて成立するようなものである。故アンディ・ウォーホルの傑作とされるものの多くは、マリリン・モンローや、キャンベルスープ缶会社や、毛沢東の権利をなにがしかの形で侵害しなければ生まれなかっただろう。あえて横紙破りをやって美術表現に新しい領域を切り開くというのがポップアートの生命線だったはずだ。自分からウォーホルに頼むような有名人というかスノッブが増えたのは、彼が「やってしまって」有名になった後の話である。
日本で開催すればもっとひどいことになっていたかもしれないので、この美術館のポリシー自体をとやかく言うつもりは、個人的には無いのだが、しかし少なくとも常識的に考えればつじつまの合わない話だとは思う。ウォーホルが生きていたらどう思っただろう。ウォーホルはややこしい人だったようだから、もしかするとこのアイロニーに嬉々として「写真撮影厳禁」と言ったかもしれないね(というか、これも美術館側が仕掛けた高度なパフォーマンスなのかもしれない。なんだかそんな気もしてきた)。ただ一般論として、亡くなったアーティストの遺族が(客観的に見れば)妙な信念から権利を振りかざし、結果としてどう考えても故人の本意ではなさそうな形で著作物が囲い込まれていくという問題はあると思う。最近になって内田樹氏も似たようなことを書いていたし、私が個人的に好きなジャズの世界でもそういう事例はあった(厳密に言えば、今でもある)。「妙な信念」と書いたが、例えば権利料に不満であるとか、完全に金銭的な問題であれば、まあ問題は問題だがそれほどさしたる問題ではない。ここで私が問題にしているのは著作(財産)権が管掌する領域というよりは、もっとどろどろした情念やプライドの問題であり、それが何らかの法的・制度的サポートを得てしまう可能性についてである。
死んでしまえば、死者は生者に何をされても文句は言えない。それは確かだ。この世界ははっきり言ってすべて生者のために存在するので、どうしようもないと言えばどうしようもない。また、クリエイティヴ・コモンズのような概念が普及すれば、生前のアーティストの意向に沿わない死後の作品権利管理、というような問題は徐々に解消していくのかもしれない。
ただ、実のところ最近私が考え込んでいるのは、むしろ正当な権利者たるアーティスト本人なら何を主張してもいいのかということである。遺族ではなく、まだ生きているアーティスト当人が自ら、お前自分がやってきたことを顧みてそれはどうなんだと言いたくなるようなことをやることも多い(例えば村上隆が起こした訴訟。東浩紀氏による批判がある)。名曲「おふくろさん」に関する歌手森進一と作詞者川内康範の確執も、本質的には似たような問題だろう。
私が困惑しているのは、そもそも著作権(というかここで主に問題としているのは主に著作者人格権だけれども)が拠って立つのであろう「オリジナリティ」というものが、最近の私には何がなんだかよく分からなくなってきているからだ。例えばこの文章は私のオリジナルで、それなりに手間暇をかけて書いているわけだが、BoingBoingの記事を読まなければそもそも書かなかっただろう。だから、たぶんここにはBoingBoingのオリジナリティが、そうですね、多く見積もって20%くらいは「混入」しているはずだ。でも、もちろんこの文章はBoingBoingの単純な翻訳ではないし、この文章と一言一句同じ文章を、私以外の誰かが書けるとも思わない(似たような内容で、もっと優れた文章なら書けるかもしれないが)。このような場合、法的にはともかく、倫理的(?)に私がひとり権利者として振る舞って、この文章の「作者」であることを主張し、この文章に関する全権、ないし決定権を握ってよいものなのだろうか。
一見斬新に見えるという程度のもののみならず、本当に斬新なものすら、精査すれば過去の先人の業績を見た目以上に引きずっていることが多い。というより、過去を踏まえないイノベーションなどおよそあり得ないと私は思う。そして、リミックスや録音は言うに及ばず、単なる組み換え、並び替えに過ぎないとしても、やはり違うものは違うし、やる人の能力というかセンス、個性が出来に濃厚に投影されるとも言えるのだ(どうしても個人的には、この手の話では「音作り」という行為におけるマイルズ・デイヴィスとプロデューサーであるテオ・マセロ、あるいはプロデューサーのアルフレッド・ライオンと録音エンジニアであるルディ・ヴァン・ゲルダーの関係を想起せずにはいられない)。そもそもこの文章で私が展開した議論にしても、例えば増田聡氏がかつて述べていたことの変奏に過ぎないとすら言える。端的に言おう、この文章は、あの音楽は、誰が書いた/作ったのだ?
インターネットが普及し、誰でも過去の遺産を含む膨大な情報にアクセスできるようになると、今後「オリジナリティ」や「作者性」というようなものはいよいよ希釈され、今まで以上に希薄になっていくだろう。そう考えたとき、特定の著作物の公表を促すインセンティヴ供給装置としての著作(財産)権はともかく、作者と作品の濃厚な結びつきのようなものを措定する(かのように見える)著作者人格権という概念が、今後も(少なくとも今のような形で)生き残っていけるのか、個人的にはかなり疑問である。ただ、じゃあ本当に無くなってよいのかと問われると、そうとも言いきれないのが悩ましいところなのだが。
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