GNU/Linuxと呼ぶことについて

 「Linuxじゃない、君が使っているのはGNU/Linuxだ」というのはストールマン御大のオハコで、彼に会う人は誰しも大体一度は口を滑らせて怒られるはめになる。私自身はというと、スペインはバルセロナくんだりまで行って怒られたことがあった(おまけにその一部始終は録音、中継されていた)。ちなみに、LinuxはGNUプロジェクトの産物ではないということを強調すべく、御大は「グニュー・スラッシュ・リヌクス」とちゃんと区切りのスラッシュを発音することも忘れない。

 多くの人はこれを、Linuxだのリーナスだのばかりが目立ってGNUプロジェクトFSFの功績が看過されがちな現状へのストールマンの感情的反発だと思っているらしく、そこを揶揄する向きもあるようだ(そのへんに関する公式見解(?)はLinuxとGNUに詳しい)。まあ、それはそれで当たらずとも遠からずだとは思うが…。なお、一連の論争についてはWikipediaのエントリがよくまとまっている。わざわざ項目を立てるほどの話ではない気もするけれど。

 さて、根がずぼらなので前述の通りたまに言い損なうこともあるが、カーネルそのものではなくオペレーティング・システムなりディストリビューションなりの全体について話をする際には、私も基本的に「GNU/Linux」と表現するようにしている。別にRMSに怒られたから、というわけではなく、ましてやGNUやFSFへの敬意が云々といったことでもなく、そこにはもう少しプラクティカルな理由が存在する。ようするに、「GNU/Linux」とわざわざ呼ぶことにはそれなりのメリットがあると私は考えているのだ。

 現在、ユーザの目から見ればほとんど同じオペレーティング・システムで、カーネルだけが違う、というものが、いくつも存在している。別に何と呼んでもよいのだが、少なくともUnixと呼ぶわけにはいかないし、他にうまい言葉もないので、私は歴史的経緯からそれらを総称して「GNU」と呼んでいる(そもそもGNUとは「GNU’s Not Unix」という洒落であったことを思い返してほしい)。DebianはGNUのフレーバーの一つで、そのうち最もポピュラーなのはLinuxをカーネルとして利用したDebian GNU/Linuxである。しかし、Debian GNU/Linuxが唯一のDebian GNUではない。GNU variantsにもあるように、以下のような「Linuxカーネルを使わないDebian GNU」が存在している。

 若干(相当?)毛色が違うが、以下の二つもまあ、GNU variantsと言えなくもないだろう。

 ちなみに、一時期Debian GNU/OpenBSDなどという恐ろしいものも開発されていたのだが、あまりうまくいかずに立ち消えになったようだ。

 これらは、ユーザランドという意味ではすべて同じである。カーネルだけが違うのだ。こうした状況を整理するのに、「GNU/カーネル名」という表記はとても役に立つ。また、Debianのパッケージメンテナンスをしていると、問題がGNUのレイヤーに属するものなのか、カーネルの違いに深く関係するものなのか、切り分けなければならないことが多い。例えば、「GNU/LinuxでもFreeBSDでもビルドできるがGNU/kFreeBSDではダメ」というようなバグレポートが来ることがある。こうしたときに紛れを無くすためにも、GNU/Linuxなどと注意して呼ぶことには(若干の)意味があると考えているのだ。

 ちなみに私が個人的に使ってみたことがあるのはDebian GNU/HurdとDebian GNU/kFreeBSDで、さすがにHurdのほうはまだ常用するには苦しいものがあるが、kFreeBSDのほうは拍子抜けするくらいに違和感がないし、それなりに実用に耐える。Debian開発者の中には、ウェブサーバとしてDebian GNU/kFreeBSDを使っている人もいる(例えばStatus of Maintainer’s packages, ports and bugsはDebian GNU/kFreeBSDベースのサーバ上で運用されている)。わざわざ実機にインストールしなくともQEMUなど仮想マシンに入れる手もあるし、Live CD(Ging)も用意されている。お暇な方は試してみると良い。

 ところで、私がたまにGNU/Linux以外のGNU variantsで遊ぶのには、大きく分けて二つの理由がある。

 一つは、特許紛争などの影響で、いつの日かLinuxカーネルが急に利用できなくなったときに備えて、二の矢三の矢は常に用意しておくべきだとする考えである。まあ、この手の話の現実味は数年前と比べるとだいぶ減ってはいるし、今となってはLinuxがダメなら他も一蓮托生のような気がしないでもないが、備えあれば憂いなしだ。

 もう一つはやや情けない理由である。というのも、GNU/Linuxはなんというか、今や個人ユース程度にはあまりにも完成されすぎていて、率直に言ってうまく動きすぎてつまらないのである。昔を思えば信じられないような贅沢な理由だが、つまらないものはつまらないので仕方がない。だからと言って一からOSを作り直すなど未踏の荒野を行くような気力も能力も暇もないので、GNU variantsあたりをいじってお茶を濁すわけだ。あまりユーザのいないvariantだと結構派手なバグが残っていることも多いので、ほどほど手応えがあって楽しいのである。Linuxだけを使っていると分からない、いわばLinux-ismというようなLinuxの変なクセが案外あることも分かって、勉強にもなる。