オープンソースのタオイズム

 2,500年前、中国の思想家、孔子が道教の祖、老子に尋ねた。「タオ(道)とは何ですか」。老子は口を開けたものの言葉を発しない。孔子は笑みを浮かべて立ち去ったが、弟子たちにはさっぱり意味がわからなかった。孔子は次のように説明した。「老子は我々にタオをお示しになったのだ。彼の口に歯はなく、あるのは舌のみ。剛きもの(歯)は死に、柔らかきもの(舌)が生きる。柔よく剛を制す。それがタオだよ」

 オープンソースはそうした柔の力にあたる。老子は著書『道徳経』の中で「柔の力は水の如し」と説明している。一滴の水は無力だが、大量の水には激流を生む力がある。同様に、1人のオープンソース参加者に大きな力はないが、そうした人が数多く集まることでオープンソースコミュニティの力は強大なものになる。一方、従来のソフトウェアは剛の力であり、歯のようなものだ。1本の巨大な歯(たとえばMicrosoftがこれにあたる)は強いかもしれないが、時が経てば脆くなり、やがて抜け落ちる。

柔の力はまだ剛に適わず

 今のところ、ソフトウェア業界における力関係では依然として従来のソフトウェアが勝っている。タオイズムによれば、その理由は時間にある。オープンソースの業界はまだ新しく、もっと多くの“水滴”を必要としている。まだ参加者が十分でない優れたオープンソースプロジェクトが多数存在する。たとえば、3DレンダリングソフトウェアYafRayにとって2006年は苦難の年だった。というのも「元からいた開発者たちに時間的な余裕があまりなく、十分な連携を取って開発が行えなかった」からである(「YafRay Next Generation」を参照)。開発ツールの不足や知的財産権の侵害といった要因は、オープンソース業界への開発者の参入を妨げている。

 タオの言葉に、滴り続ける水は石をも穿つが(滴水石穿)、いかに硬い歯も石の前には無力である、というものがある。水滴に激流を形成するほどの力がない以上、ひたすら時間をかけて石を穿つしかないわけだ。オープンソースの世界では、YafRayが2006年にあわや終結という事態を迎えたが、Mathias Wein氏(新たな“水滴”)が名乗りを上げたことでYafRayの開発は継続され、YafRay 0.0.9がリリースされた。優れたオープンソースプロジェクトに十分な参加者が集まれば、プロジェクトは岩をも転がす滝のようになる。また、参加者が足りなくても活動が続けば、やがては“石”に穴が開く。

柔の力を剛の力に勝るものにする

 タオイズムは、慎ましさによって柔の力を剛の力に転じることができる、と示唆している。水が作り出す最大のものは大洋である。「大洋の偉大さはその慎ましさにある。大洋はどんな小川の流れも受け入れる」(老子)

 2007年、Linuxの創始者Linus Torvalds氏はGNOMEと論戦を繰り広げた。タオイストの見解によれば、GNOME側の問題は“小川”を受け入れられるほどの慎ましさがなかったことにある。

 オープンソースの強さは、その無数の参加者に由来している。しかし、現在2つの問題がこの強みを活かす妨げになっている。1つは、一部のプロジェクトがオープンソースのコードを有しながらも新規参入者に対してはコードをオープンにしていないことだ。たとえば、GNOMEではソフトウェアに問題があっても、決してユーザにパッチの提供を求めない。貢献者が増えすぎるとGNOMEのソフトウェアが台無しになってしまいかねないことは理解できる。だが、GNOMEとしてはそうした“小川”にあたる貢献者たちを拒むのではなく、もっとうまく活用することを考えられるのではないだろうか。

 もう1つの問題は、サポートと開発者向けツールの不足だ。幸いにして、この状況は変わりつつある。たとえば、AMDはグラフィックプロセッサでのオープンソースのサポートに関して大きな方針転換を発表したばかりだ。

 オープンソースコミュニティがもっと謙虚になり、もっと“水位”を低くしてどんな小川も迎え入れるようになれば、従来のソフトウェア業界の“剛の力”を制するほどの強さが得られるだろう。

 タオイズムは、慎ましくあることに加え、“自然体”であることによって柔が剛に打ち勝つことできると説く。オープンソースソフトウェアはコードの公開を売りにしている以上、今よりもっと多くのプログラマがコードの閲覧、新機能の創出、バグの修正を行ってくれる可能性がある。これは自然の成り行きであり、科学が時を経ながら発展してきた経緯と同じだ。たとえば、中国で発明された黒色火薬の“オープンソース”が各国に広まり、それを改良して用いることで1860年代にアメリカの東海岸と西海岸を結ぶ大陸横断鉄道が開通した。

オープンソース参加者に贈るタオイストの精神

 老子の教えを継いだ偉大なるタオイスト、荘子は楚という国の宰相の地位を拒んだことがあった。彼は楚の王に向かって次のように言ったという。「陛下は宮殿にいる神聖な亀をご存じですか。人々はその亀を祭壇に祀り、果物や花、食事を供えました。しかし結局、亀は長生きすることなく魂を失い、今やその甲羅を残すのみ。私は、神聖で尊い甲羅になるよりもむしろ、自然体で生きて泥の中を幸せに歩き回りたいのです」

 「The GNU Operating System and the Free Software Movement」において、Richard Stallman氏は自らがクローズドソースの殿堂に赴かなかった理由を次のように説明している。「自分にとって楽な選択は、プロプライエタリ・ソフトウェアの世界に足を踏み入れ、秘密保持契約にサインして、仲間のハッカーに協力しないと約束することだった。そうすれば大いに稼ぐことができ、たぶんコードを書く楽しみも得られただろう。だが、私にはわかっていた。そうしたキャリアの果てに見えるのは何年もかけて作り上げた人々を隔てる壁であり、ソフトウェアの世界をひどい場所に変えるために自らの人生を捧げてしまったと後悔するであろうことが」

オープンソースの精神は、かくありたいものだ。

linux.com 原文