Linus対GNOME戦、第2幕
発端は、かつてTorvaldsが行ったGNOME非難に対するMarcos Perez Lopezの反論だった。月曜日、LopezはLinux Foundation(OSDLの後身)のDesktop Architectsメーリングリストにスペイン語で投稿し、GNOMEを擁護した。それは、次の言葉で終わっている。
¿Quién es el NAZI?ナチはどっちだ。Nada mas, esto para LINUS para que piense. 単に、君がそう考えているというだけのことだ。
LINUS, NO SABES LEER ESPANOL, ?A VER SI VAS A SER IDIOTA TU TAMBIEN? Linusよ、君にはスペイン語がわからないだろう。だからといって君も愚者ということになるわけではあるまい。
これを見たFernando Herreraが、直ぐに、ゴドウィンの法則を持ち出して争いを鎮めようとした。が、論争は止まらない。Torvaldsはスペイン語攻撃をいなして論を進めた。曰く、GNOMEが使いやすいというのはよいが「『使いやすいだけ』では駄目だ」「利用者は一度『使い始めたら』、更なることは望まないとGNOMEでは思われているが、そんなことはない」
この言に、Christian F.K. Schallerが、Torvaldsの行動を促す挑戦状を叩きつけた。
挑戦すべき課題がほしいというのなら、まずGNOMEを1か月間使ってから、その経験を今年英国で開催されるGUADECで語ってはどうか。そうすれば、こうした無意味な中傷ではなく建設的な会話ができるだろう。
そして、Torvaldsは動いた。ただし、Schallerの提案に従ったのではない。挑戦に応じて、今朝、GNOMEを自身が考える形で動くようにするパッチを公開したのだ。そして、メーリングリストで次のように述べた。
パッチを送った。このパッチでコードは実際に「きれい」になり、設定機能も向上する。今後の成り行きをみてみようではないか。建設的というのは、こういうことを言うのだ。
建設的でないのは「言い訳」ばかりしているGNOMEの方だ。このパッチを実際に作るのに数時間かかったが、大して難しいものではなかった。ずっと前にできたはずなのに、何故もっと早くパッチを作らなかったと君は思うに違いない。
その理由は、言い訳ばかりのGNOMEが「パッチを送れ」と言わなかったからだ。それどころか、基本的に彼らの行動が示しているのは、僕のおばあちゃんが要らないという改修には「見向きもしない」ということだ。
これが「建設的」だと言えるだろうか。
それでは、私のパッチはどうか。保証するが、このパッチでコードは実際改善され(単なる機能追加ではない)、論理性も低下するどころか「向上」する(このパッチを適用すると、タイトルバー上のダブルクリックは特殊扱いでなくなり、その他の場合と同じ方法で右クリックや中クリックに設定可能になる)。
それにしても、何故、一体どうして、GNOMEは「そんなに言うなら改修してくれ」とは言わないのだろうか。
それどころか、今だに(パッチはすでに送ってある)ブツブツ言っている。自分たちは正当に行動している、GNOMEの欠点を指摘する「私」が悪いのだと。
事実はこうだ。私がGNOMEの欠点を指摘するのは「そのとおりだから」にほかならない。
したがって、問題はこうなる――彼らがこのパッチを受け取るか、あるいは、馬鹿なまねを続け、いろいろ設定できるのはよくないと言い続けるか。論理性が向上し、コードは読みやすくなるというのに。
さてもさても。素晴らしくも風変わりな、そして決して退屈させないフリー・オープンソース・ソフトウェアの世界へ、ようこそ。ここでは、駆け引きであろうが討論であろうが、すべてはコード、なのだ。
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