Torvalds氏が語るオープンソースのからくり

 Linus Torvalds氏はしばしばオープンソースの推進者として語られ、彼がライセンスに関心を寄せるのは、コードの共有とソフトウェアの改良を迅速に進める自らの力に影響を及ぼすからにほかならない。しかし、彼の本当の立場はもっと複雑なものであり、一部の人々には意外に思えるかもしれない。

 コードの共有とユーザの権限拡大(いつも決まってTorvalds氏とは対極の立場として取り上げられるフリーソフトウェア推進派の公然の目標)のどちらが重要か、と単刀直入に訊かれたTorvalds氏が発した第一声は、次のような「Linusお得意の品のある言葉」だった。「実に愚かな質問だ。なぜ“二者択一”の概念として考える必要があるのだろうか」。オープンソースは科学的な疑問と同じような形で作用し、また啓蒙的な利己主義の問題であるため、コードの共有とユーザの権限拡大は「まったく相反しない」と彼は説明を続けた。詰まるところ、彼の立場は、フリーソフトウェアやオープンソースの双方の支持者が認めようとする以上に、フリーソフトウェアに近いところにあるというのだ。

 コードを共有することの重要性を力説するTorvalds氏の言葉は、幾度となく取り上げられてきた。特に、最近リリースされたGNU一般公衆利用許諾契約書バージョン3(GPLv3:General Public License version 3)に関する議論の中では、その傾向が顕著だった。最もよく知られているのが、2006年3月のForbes誌のインタビュー記事で同氏がGPLバージョン2の支持を表明したときのものだ。「GPLv2は、ライセンス対象ソフトウェアの利用に何の制限も課していない。あなたがマッドサイエンティストなら、世界制覇を目論む邪悪な計画(たとえば、鮫の頭にレーザー銃を仕込むとか)にGPLv2ソフトウェアを利用することもできる。GPLv2が要求しているのはソースコードの公開だけだ。私個人としては、このことに何の異論もない。レーザー光線を発射する鮫、というアイデアも悪くないと思う。その代わり、世界中のマッドサイエンティストには同等の見返りを要求する。彼らにソースコードを提供したのは私なのだから、彼らがそこに変更を加えたものは私にも利用できるようにしてもらわなければならない。その後は、鮫に取り付けたレーザー銃で私を焼くなり何なり好きにしてもらって構わない」

 しかし、コードの共有とユーザの権利拡大のどちらがより重要かという問いに対する最近の受け答えの中で、Torvalds氏はこうした引用が取材内容の一面しか捉えていないことを明らかにしている。

 Torvalds氏の説明は科学への言及から始まっており、これはフリーソフトウェアおよびオープンソースソフトウェアの開発が科学というカテゴリに入ることを示唆している。二者択一の答えを求める質問は「意味をなさない」と彼は言う。「科学が人間に力を与えていることは明らかだが、それは森羅万象の動作モデルにかなったものだからであり、科学がそうしたモデルに適合してきたのは、うまく機能するための適切なプロセスがそこに存在するからだ。情報の共有は、そうしたモデルのほんの一部でしかない」

 「さらに大きな部分を占めているのが、人間の知的好奇心である。実際、最も重要なのは人々の存在だ。いかに人々が好奇心にあふれ、世界を理解して支配したがっていることか。また、すべての人々がどれほど自分自身の生活環境の改善に利己的な興味を持ち、そして同時に、宇宙についてもう少し詳しく説明できる何らかの細部を解き明かすことで、ほとんど思いがけず他人の生活環境を改善することになっていることか」

 「同じことがオープンソースにもあてはまる。本来、オープンソースは“情報の共有”に関する概念ではない。情報共有の考え方はオープンソースのごく一部であり、より優れたソフトウェアを生み出す手段の一部に過ぎない」

 Torvalds氏の考えでは、オープンソースは利他的な活動でもない。むしろ彼は、オープンソースを啓蒙的な利己主義の問題と捉えている。「啓発的な利己主義は称賛に値する。自らの地位を絶えず高めていこうとする個人的な闘争だからだ。オープンソースに関わる人物はそれほど利己的でなくても、なるべくコストを抑えて(できればほかの誰かが作ったソースコードを使うことが望ましい)、比較的少ない労力で徐々に自らの地位を改善していくことで、自分以外のあらゆる人々の力を活用しようとする」

 こうした態度がもたらす短期的な結果について、Torvalds氏は次のように話す。「しばらくの間、その人物は恩恵に預かることになる。手にしたツールが彼の欲することをやってくれるからだ。そして長期的には、我々全員がその知識を得ることになる。個別に見ればちっぽけであまり意味のない恩恵かもしれないが、それは段々と積み重なっていく」

 「そして、今のような状況になった。それは、一部の進取的なユーザにまず彼ら自身の権限を拡大させ、後にその成果をほかのあらゆる人々のために利用することによって、“すべての人の権限を拡大する”というものだ」

 Torvalds氏がこのように表現する世界観は、なぜ彼がGPLの最新バージョンに対してあれほど強硬に反対してきたか、そして従来のバージョン2に踏み留まろうとするのかを説明する手がかりになる。フリーソフトウェア財団(Free Software Foundation)との過去の衝突が彼の意見に影響を与えていることに疑いの余地はないが、この対立はさまざまな形を取る個人攻撃の1つというより、もっと根の深いものだ。

 Torvalds氏にとって、特許の共有とロックダウン技術(フリーソフトウェア財団は好んでTivo化という呼び方をする)の利用制限の各条項に関する問題点は、これらの条項によってオープンソースならではのアイデアを自由に交換できなくなる人々がいることにある。「さまざまな人々や組織がそれぞれに異なる目標を持ち、まさにそうした違いがすべての人にとってプラスに作用する、それがオープンソースの本質だ」と彼は語る。「気に入らない人々とは情報を共有しないなどと言って科学の発展を妨げようとする連中(たとえば、軍の関係者)は皆、頭の足りない愚か者としか思えない。私に言わせれば、同様のことはオープンソースにもあてはまる」

 以前から続いている対立の影響は残ってはいるが、それよりも大事なのは、フリーソフトウェアとオープンソースの思想の違いが常々言われているほど大きくはない、という見過ごされることの多い事実である。

 無理もないことだが、Torvalds氏は自らの言葉がジャーナリストに利用されることに対して警戒心を抱いている。ジャーナリストは自分自身では敢えて口にしないようなことを書くために引用を使うことが多く、また、一般の人々がどのようにTorvalds氏を捉えているかが「ジャーナリストの意見」に大いに反映される、とTorvalds氏は指摘する。なるほど、その通りかもしれないが、フリーソフトウェア派とオープンソース派のそれぞれで想定されている目的の二者択一化をTorvalds氏が拒んだことは、双方の違いが思想そのものではなくその思想を実現する方法にあることを示唆している。フリーソフトウェア財団がそうした目的を法的手段によって達成しようとしているのに対し、Torvalds氏をはじめとするオープンソース支持者がほのめかしているのは、人々が普通に振る舞ってさえいればそれでよい、という考えだ。

 こうした観点から見ると、Torvalds氏による数々の意見が、最近のGPL論争で見過ごされがちだった以下の事実を強調するものであることがわかる。それは、フリーソフトウェア支持者とオープンソース支持者が盟友どうしである、という点だ。互いにけしかけ、ことあるごとに泥を塗り合う穏やかならぬ関係にあるかもしれないが、それでも盟友であることに変わりはない。なお、ここでわざわざこのことに言及したのは、単純にそうした事実が近頃あまり口にされなくなったからである。

Bruce Byfieldは、Linux.comとIT Manager’s Journalに定期的に寄稿しているコンピュータジャーナリスト。

Linux.com 原文