KDE 4問題によってコミュニティユーザから消費者ユーザへのシフトが鮮明に

 昨日翻訳記事)、KDE 4に対するユーザからの反発についてお伝えした。その原因については今なお定かではないものの、どうやらこの状況は、KDEが計画段階で前提としていた条件や、各ディストリビューションがまだ一般利用向けではないリリースを早急に含めてしまったことや、フリーソフトウェア関連の扇情的なブログやマスコミなどといった要素が複雑に入り交じって起こったということのようだ。とは言え、ことによると最大の原因の一つかもしれない、FOSSのユーザベースが明らかにシフトしているということについてはまだ十分に議論されていないように思われる。つまり、今回KDE 4が短期間のうちに徹底的に拒絶されたことから考えると、フリーソフトウェアのユーザは、革新性を重視する博識な少数のグループから、従来の方法や慣れた方法を重視して変化に対してはさかんに懐疑的な態度を取る、より大規模なグループへとシフトしているように思われる。

 KDE 4に対しては多くのコミュニティで――各投稿で使われている「!」の数からも分かるとおり――非常に感情的な反応が見受けられた。中には、アイコンからメニューからファイルマネージャがDolphinであることまで、KDE 4のほぼ何から何までを毛嫌しているユーザもいるようだ。もちろんそのような不満のいくつかは正当なものだが、不平は様々な矛盾した方向からものすごい速さでやって来るため、根源となっている原因を見つけることでしか、それらすべての不平を解決することはできないだろう。

 そしてその根源的な原因となっているのは、まったく新しいことや様変わりしたことに対する嫌悪感なのではないかと思われる。例として、Groklaw上のこの匿名コメントを考えてみよう。「その通り――単なる道具としての役割を果たす、つまらない、古びた、変化のないOSこそが、あらゆるビジネスが求めている適切なシンプルさの基本だ!……つまりKISS(keep it simple, stupid)ということだ」。この投稿者はこれがビジネスユーザ全体の意見だとしているが、投稿者自身の意見のみを述べているようにしか思えない。そして彼(やその他多くの彼のような人々)が主張している内容というのは、自分がすでに知っていることは好ましいが、新たな変化は信用しないということだ。

 これは非論理的な態度だ。KDE 4デスクトップは、ほとんど写真のような画質のアイコンやベクタグラフィックスが表示されることもあって従来のデスクトップよりもスタイリッシュかもしれないが、見覚えのあるメニューやパネルもあってデスクトップであることに変わりはない。例えばアイコンの追加など、やり方が変わった機能があったとしても、新たな方法を知るのはそれほど難しいことではない。また例えば新しいメニューが気に入らなければ(私もそうだが)、従来のメニューと入れ替えることができるし、そのやり方についてもそれほど調べ回らなくても知ることができる。またさらに言えば標準プログラムのKDE 4ポートでの変更は、KDE 4デスクトップ自体の変更よりももっと控えめだ。多くのプログラムに見掛け上の変更があり、ほとんどのプログラムに新機能が追加されてはいるものの、一見して明らかに同じプログラムであることが分かる。

 当然ながら問題なのは、そのように理屈で説明されたところで恐怖心がおさまるわけではないということだ。かなりの割合のGNU/Linuxユーザ――あるいは少なくとも声高な少数のユーザ――にとって、変化は今や望ましいことではなく、おそらくバグ修正や小規模な改良点以外のあらゆる変化は、避けるべきものとなっている。

 変化を恐れるユーザはフリーなデスクトップを使い始めたばかりのユーザであることが多いので、プロジェクトの建設的なコミュニティメンバーとしてではなく、以前のプロプライエタリなソフトウェアでの経験に基づいて自分が知っている唯一の方法で――つまりプロジェクトリーダの関心を引くために怒りの声を大きく大げさに上げたりする必要のある「消費者」として――不満を主張する可能性が高い。これは、フリーソフトウェアの人気の高まりにともなう当然の成り行きなのだろう。

解決法を探す

 大規模で人気のあるプロジェクトの開発者たちは、このような状況下でジレンマを抱えることになる。つまり、上記のようなユーザの不満がある一方で、ほとんどのフリーソフトウェア開発者たちの興味の対象は機能の追加や拡張だということがある。彼らも時々は、効率のためにコードの整備的な作業も行わないではないが、その作業によってソフトウェアが向上しなければ、開発者のプライドや興味の観点から作業の対象にはなり得ない。しかしこのような開発者の求めるところは、声高なユーザが求めるところとは相容れないのかもしれない。

 では開発者たちはどうすれば良いのだろうか。昔ながらのハッカーのように「それなら自分でコードを書け」と叫ぶのは正しい答えではないだろう。またユーザを無視することもできない――不満を持ったユーザは単に、プロジェクトのメーリングリストに投稿してプロジェクトを攻撃したうえ、ブログ上で大げさな熱弁を振るうことになるだけだろう。意見を主張するためのフォーラムが見つからなければ、どこかのフォーラムを乗っ取るだろう。そうしてほどなく、コア開発者はプログラミングよりも批判への応対により多くの時間を費やさなければならなくなってしまうだろう。

 とは言え、不平や不満に屈するというのも同じくらい正しくはない選択肢だ。最近の大抵のデスクトッププロジェクトはユーザのフィードバックに注意を払うように努力しているが、変化を望まない人々によるフィードバックについては、聞く耳を持つ程度で十分だろう。開発活動の内容がバグ修正だけになってしまえば、開発者はいなくなってしまう。

 ではどうやって解決すれば良いのだろうか。例えば一つのアイデアとして、ユーザが圧倒されてしまわないように、変更を導入する際にはもっと時間をかけるというのはどうだろうか。あるいは、開発段階からのユーザの参加をもっと促して、プロジェクトの目標をより明確に伝えていくというのはどうだろうか。

 大規模なFOSSプロジェクトは次のような点に注意すべきだ。ユーザが変更を受け入れることを前提とすることは今やできなくなった。そればかりかむしろ多くのユーザがさかんに反発したり、あり得ないほど敵対的な反応をしたりすることがあるという現実を受け止めることができるようになる必要があるのかもしれない。そのようなことが起こる可能性を無視していると、あなたのプロジェクトも現在のKDEと同じような難局に陥ってしまうかもしれない。

Bruce Byfieldは、Linux.comに定期的に寄稿するコンピュータジャーナリスト。

Linux.com 原文