2006年:FSFが社会に働き掛けを行なった年
FSFが2006年中に行なった社会活動的な活動の数はかなりの数に上るが、特に重点を置いた活動は、基本的にはFSFが昔から果たしてきた役割の延長上のものだ。そのような活動が1年を通じて影響力を及ぼし続け、Javaのオープンソース化の実現やチップセットメーカーのLinuxBIOSの認知度向上などの事柄につながったように思える。 同様に、FSFのコンプライアンス研究所(気付いてみればいつの間にか設立から5年以上を経ているのであるが)も、(コンプライアンスエンジニアのBrett Smith氏によると)チケットシステムでライセンス関連の質問に答える5人のボランティアを確保し、今では週に75件以上もの質問をさばいているとのことだ。 さらにここ2年の間のFSFは、GNUプロジェクトのウェブサイトの運営のみならず、非開発者向けのサイトの運営までをも開始した。この非開発者向けのサイトは、 FSF常任理事のPeter Brown氏の表現を借りると「一般の人々向けのメッセージをより多く」伝えるためのものだと言う。
また、FSFが2006年に行なった活動として特に重要なこととして、GPL(GNU一般公衆利用許諾契約書)の改訂に関する公開議論を開始したことと、一般に参加を呼び掛けるような社会運動をいくつか開始したことが挙げられる。 社会運動の例としては、Windowsの最新版に見られる「アンチ自由」の傾向に警鐘を鳴らすために最近開始された「BadVista キャンペーン」や、メジャーな社会活動家向けのメディアがフリーソフトウェアにまつわるトピックを取り上げるよう働きかけを行なう活動などが挙げられる。 また5月には、DRM(ディジタル著作権管理)技術に反対するための「Defective By Designキャンペーン」にも着手した。 これらの活動の中には成功を収めたものもあるが、一部のもの、とりわけGPLの改訂プロセスについては広く批判されている。しかしここで重要なのは、その成否ではなく、2、3年前にはFSFが将来的にこのような活動に取りかかるということなど、誰一人として予想だにしなかっただろうということだ。
とは言え、もしあなたがこのようなFSFの変化に気付いてなかったとしても、それは無理もないことだ。というのも、あなただけでなく当のFSFのメンバーの中にもこのような方向性の変化に気付いていない人も多いのだ。 例えば、2006年におけるFSFの活動の主なまとめ役の一人であったBrown氏でさえ、今回われわれNewsForge編集部にこの点を指摘され、そのことについてFSFのオフィスにいる人々と議論してみてはじめて、FSFのこのような活動傾向の変化に気付いたと言うのだ。
変化を遂げた理由
FSFの計画管理を担当するJohn Sullivan氏は、FSFがこのように変化した理由は FSFの指導者層に社会活動を好む人材が増えたことが一因ではないかと考えている。Sullivan氏は、Brown氏や、プロの活動家でありFSF理事でもあるHenri Poole氏といった名前を挙げつつ、「FSFには今や広く一般社会への働き掛けを好むグループがいるのです。そして、そのようなグループの希望は、 FSFに技術屋社会の枠にとどまらず広く一般社会において活動して欲しいということなのです。広く一般社会においてフリーソフトウェアの知名度を上げたり組織的な活動を行なったりすることに、FSFにもっと関わって欲しいということをそのようなグループは希望しているのです」と言う。
Brown氏は、あるFSFスタッフの言葉を借りて「FSFは今までは慣例として主にRichard Stallman氏を通して、個々のプロジェクトや管理者とやり取りを行なってきました」と説明する。しかしBrown氏によると最近では、FSFの主な関心事のいくつかがDRMのように広く一般社会に関わるような事柄になり、そのような事柄に対処するためにはFSFのより多くの人が関わらざるを得なくなり、それにつれ、Stallman氏がすべての中心というわけではなくなってきたのだという。 Brown氏によると「今現在フリーソフトウェアの成功例もたくさんありますが、 同時に大きな脅威となるものも少なからず存在しているのです。わたしたちが行なってきたことというのは、わたしたちが直面している戦略上重要な状況への対応に他なりません。わたしたちの活動が以前より外交的で社会指向になっているのだとすれば、それはわたしたちが今の時点でまさにそうなる必要があると考えているからということなのです」とのことだ。
Sullivan氏もBrown氏に同意する。そしてFSFの活動に対するメディアの関心が高まっていることについて触れ、「わたしたちが行なっているのは、わたしたちが直面している戦略上重要な状況への対応に他なりません」と繰り返した。
これまで独断(独裁的)にもほどがあると非難されることも多々あったFSFを考えるとおそらく驚くべきこととして、Brown氏によるとこのような変化のきっかけとなったのは、2005年のFSFの総会に参加した、とある草の根的な組織のメンバーの話に耳を傾けたことだったと言う。 Brown氏は以下のように説明する。「FSFは、ニューヨーク州で草の根的に始まったフリーソフトウェアのグループに感銘を受け、影響されたのです。 総会では、そのグループのメンバーが立ち上がって活動を説明していました。 FSFの理事会メンバーも全員そこにおり、その説明を聞いていました。 そして彼らの活動に、完膚なきまでにノックダウンさせられてしまったのです。 というのも、まさに彼らの活動こそがわたしたちが実現しようと奮闘していた理想だったのですから。地元の人達が集まり、オープンソースのことでもLinux対Microsoftのことでもなく、自由についての問題が地元の環境や社会にどのように影響してくるだろうかという点に本当の関心が向けられていました。 そして、その草の根グループがどのようにして地元の学校に働きかけ、自由についての問題をどのように人々に伝えているのかについて話してくれました。 わたしたちにとって、まさに目からうろこが落ちる経験だったのです」。
Brown氏によるとそれ以来「何か広く社会一般に働き掛けるようなことをFSFが行なうということを以前よりも期待されるようになりました」という。 この変化のあらわれの一つとして、2006年の総会で起こったことを挙げることができる。FSFが初めて、メンバーのためのフィードバックセッションを設けたのだ。「わたしたちは、メンバーが何を重要課題と考えているのかを知り、 自分たちがやみくもになっていないことを確認するための公開会議が必要だということに気付いたのです」。
評価と次の一歩
Brown氏はFSFの活動家による活動のすべてが成功しているわけではないと認める。そして、例えばRIAA(全米レコード協会)に対する「Defective By Designキャンペーン」の電話活動が非常に盛況であったのに対し、Sonyに対する同様の活動は、予想に反して関心の高い参加者を多く動員することはできなかったことを指摘した。
さらに重要な点として、GPLの改訂プロセスがフリーソフトウェア運動とオープンソース運動との間にある溝をさらに深めた可能性もある。けれどもBrown氏は、この二つの運動の間の緊迫状態は、GPL改訂プロセスそのものに対するものというよりは、オープンソース活動家たちが抱える「FSFがいままでに行なってきたことに対する積もり積もった怒り」から来るものだと考えている。 そして、GPL改訂ドラフトの内容にちなんで現在進行中の議論を通して、そのような問題も解決されるということを今なお望んでいるとのことだ。
同時にBrown氏は、そのような最悪の状態に関して、ややあきらめ気味でもある。「何をやるにしても、良いこともあれば悪いこともあるものなのです。 そしてわたしたちはみな、失敗から学んでいくのです」。
いずれにしても主義主張のためにはやらねばならないこともある、とBrown氏は言う。「つきつめてみると結局のところわたしたちの目的は、 世界でいちばんみんなから好かれる組織になろうということではないのです。 FSF以外の組織であれば、その時々の状況を考慮して、利益を上げるための最善の策は何だろうかだとか、もっと成功するためには自分たちの主義を曲げて妥協すべきだがどのように曲げたらうまく行くだろうかだとかを考える組織も多いことでしょう。 けれどもRichard Stallman氏のようなリーダーがいるとき、そのような考えは、ただただ存在しないのです。そのような近視眼的な考え方は、どこにもありません」。
2007年のFSFは、2006年よりももっと多くの社会的な活動を行っていくだろうとBrown氏は予測する。BadVistaキャンペーンとDefective By Designキャンペーンはどちらも継続されるのに加え、2007年にはおそらくGNU/Linux用のハードウェアドライバやソフトウェア特許に関するキャンペーンが行なわれるだろうとのことだ。
「2007年は忙しい年になりそうです」とBrown氏は予想する。「2006年はすごい年でした。でも2007年はもっとすごい年になると思います」。
Bruce Byfieldは、NewsForge、Linux.com、IT Manager’s Journalへ定期的に寄稿するコンピュータジャーナリスト。