ジャーナリストのビジネスモデル
アメリカではNew York Timesなど世界的にも名の知られた有力紙が大幅な収入減で悲鳴を上げ(紙新聞への処方箋)、地方ではドミノ倒しのごとく地方紙が倒産しているようだ。日本でも廃刊までは行かずとも経費削減のため夕刊を廃止した地方紙は多く、全国紙も遠からず同様の状況になるに違いない。新聞のみならず、雑誌等の紙媒体は軒並み苦境に立たされているようである。
新聞や雑誌の消滅がジャーナリズムの消滅につながるかのような論調もあるが、私はそうは思わない。ニュース報道はもちろん健全な社会にとって必要だが、それを生み出す主体として大規模でパーマネントな組織としての新聞「社」や雑誌「社」が必要かどうかはよく分からないからだ。新聞社が消えても雑誌社が消えてもジャーナリストは残る。だとすれば、個々人としてのジャーナリストがきちんと仕事を続け、かつ食べていけるような商売の仕組みの創出が望まれるわけである。このあたりは、おそらく先だって取り上げたアーティストのビジネスモデルと全く同種の問題が発生していると考えられる。
この種の問題を考える上で、ここ数年私が注目していたのはジェフ・ドーガティの試みだ。ニュージャージーのローカル・ペーパーを皮切りにフロリダの中堅紙を渡り歩いたドーガティは、2001年から2005年までシカゴを拠点とする有力紙Chicago Tribuneの記者となり、調査報道に従事していた。
ドーガティが有利だったのは、独学ながら彼がITに関してかなり突っ込んだ知識を持っていたということだろう。地方紙の記者だったころも持ち前のコンピュータを活かした統計分析の知識を活かし、政府や公共機関のデータベースを精査して政府の無駄や自動車の安全性、少年犯罪の問題等に切り込む記事をものしていたそうである。
2005年になって、彼のITに関する知識は記事執筆とは別の方面に活かされることになる。ある財団が運営する、報道に関する革新的なアイデアに授与される奨励金制度に応募し、34万ドルを引き出すことに成功したのだ。これを元手に独立し、Ruby on Railsを用いて自前で立ち上げたのが、Chi-Town Daily Newsである。1876年から1978年まで存続し、13個ものピュリツァー賞を受賞したシカゴのかつての名門紙Chicago Daily Newsと同じ名前を冠するというあたり、ドーガティの並々ならぬ意欲が感じられるではないか。
オンライン・オンリーの、しかし内容的には地方政治から街の出来事まで広くカバーする本格的な地方紙を、広告ではなく寄付にのみ立脚した非営利団体で運営するというのがドーガティの試みの肝だった。詳しくは後述するが、既存の地方紙はあまりにも規模が大きすぎ、高コスト体質であるというのが彼の問題意識のコアにはあった。また、そもそも既存の地方紙は、地方紙という割にあまりその地域の話題を取り上げていないという批判もあった。ITを駆使した小回りの利く組織で、より低コストで、もっとローカルに密着した報道を、というあたりに勝機があるとドーガティは見たのだろう。
Chi-Town Daily Newsは常勤の記者を抱えて本格的な調査報道を行う一方、いわゆる市民ジャーナリストからの記事も掲載した。日本においては、市民ジャーナリズムというのは正直個人のブログの延長という程度のものが多く、内容はともかく文章のレベルでひどいものも散見されたが、取材や記事執筆のノウハウを教える無料のワークショップを定期的に行い、ジャーナリストの育成にも取り組んだのである。
そんなこんなでChi-Town Daily Newsは5年続き、地方紙の新たなモデルとして全国的な注目を集めるようになった。彼がかつて所属していた巨人Chicago Tribuneが、2007年には買収され、それでも結局翌2008年にはチャプター11による破産へ追い込まれたのとは対照的だ。
さて、ドーガティというのは面白い人で、まあ寄付を集めるための方策ということもあったのだろうが、結構何でもデータを公開してしまう。例えば、Chi-Town Daily Newsに一記事載せるのにかかるコストは、長さにもよるが取材、執筆、編集等込みで250ドルから1000ドルであり、平均すると359ドルだった(Chi-Town Daily Discloses Costs for Donations)。では、Chi-Town Daily Newsのようなシカゴ程度の大都市をカバーする規模の地方紙を運営するには、結局いくらかかるのだろう。
とあるシンポジウムでドーガティが出した答えは、年200万ドルだった。200万ドルあれば、Chicago Tribuneのような大手地方紙と同等の内容をカバーする、オンライン・ベースの報道機関を運営することが出来ると主張したのである。その内訳を示そう。
役職 | 人数 | 給料 | 計 |
記者(高等教育担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(公共教育担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(公衆衛生/医療行政担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(公営住宅問題担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(労働問題担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(環境問題/水道問題担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(市役所担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(地方行政担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(民事裁判担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(刑事裁判担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(連邦裁判所担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(交通問題担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(警察担当) | 2 | 41,000ドル | 82,000ドル |
記者(経済問題担当) | 1 | 41,000ドル | 41,000ドル |
記者(遊軍) | 2 | 41,000ドル | 82,000ドル |
カメラマン(含むビデオ撮影) | 2 | 41,000ドル | 82,000ドル |
デスク | 1 | 55,000ドル | 55,000ドル |
副デスク | 4 | 55,000ドル | 220,000ドル |
編集長 | 1 | 65,000ドル | 65,000ドル |
Web 担当者 | 1 | 45,000ドル | 45,000ドル |
総計 | 26 | 1,164,000ドル |
ということで、締めて116万ドル強ということになる。もちろんこれらは人件費だけで、事務所の家賃や保険、その他諸経費もあるだろうから、それらを足して200万ドル、ということになるわけだ。日本円にすれば約2億円。個人のレベルではなかなかの金額だが、企業として考えれば、これは中小企業はおろか零細企業のレベルと言っても過言ではない。
まあ、当たり前といえば当たり前の話なのだが、こうして具体的に列挙してみると、確かにこの程度の人数と金額しか要らなさそうなことに気付く。担当分野が併記されていることからも分かるように、記者は基本的にその分野に特化したエキスパートとして想定されているのだが、率直に言って、まともな調査報道が出来るだけのきちんとした専門知識を備えた記者をこれだけの人数抱える地方紙は(場合によっては全国紙さえも)、日米問わずあまり無いのではないか。しかも、ドーガティのモデルは「理想」論である。理想論といっても、実現不可能なことを空想するということではない。これくらいあればやりたいことが出来るのに、というドーガティ自身の理想だということだ。すなわち、現実のChi-Town Daily Newsは、これよりもさらに少ない人員と予算で回されていたのである。
これで話が終わればなかなか華々しい成功例ということになるのだが、そうは問屋が卸さなかった。昨年からの深刻な不況はChicago Tribuneのような大手もChi-Town Daily Newsのような零細もひとしなみに直撃し、結局今年の9月でChi-Town Daily Newsは全ての記者をレイオフ、定期的な更新を止めてしまうのである(Some news about the Daily News)。
ただ、このことは先のドーガティのプランが非現実的であることを必ずしも意味しない。Chi-Town Daily Newsの問題は、200万ドルでは組織が回らなかった、ではなく、広告を排して寄付に頼る非営利組織という形態を選択してしまったがゆえに、そもそも200万ドルも集まらなかったということにある。不況になれば、寄付は広告以上に切られやすい分野なのだ。ドーガティもそう考えたようで、今度は営利企業として出直し、Chicago Currentなるメディアを立ち上げるそうである( Chi-Town Daily News Founder Launches New Venture)。
今度のドーガティの試みがうまくいくかはまだ分からない。また失敗に終わるかもしれない。ただ、アメリカには(もしかすると日本にも)ドーガティのような人物が多く存在し、現在も様々なやり方を模索していることだけは確かである。事実、Chi-Town Daily Newsと同様の非営利形態を採っていても、そこそこ好調な調査報道専門サイトはあるようで、日本でも最近読売新聞で取り上げられた(調査報道サイトが台頭、米主要紙と共闘も)くらいだ。新たな試みのうちいくつかは失敗し、しかしいくつかは生き延びる、というだけの話であろう。しかも、新たなビジネスモデルというのは、おおかた深刻な不況のときに種がまかれているものなのだ。
一方、現在の大手紙は健全なジャーナリズムの維持のためには政府からの援助が必要だなどと言っていて、事実税金の免除を勝ち取った例もあり(Why Is Washington Singling Out Newspapers For A Tax Break Instead Of Journalism?)、お話にならない。これは、私に言わせればジャーナリズムの自殺である。実際、政府の広告が多い新聞ほど政府批判が少ないという実証研究(How government money can corrupt the press: The story from Argentina)もあるくらいだ。どちらにジャーナリズムの未来があるかはほとんど自明だろう。
私自身は、今後はジャーナリズムとメディアの分離が現在以上に徹底することになるのではないかと思っている。ジャーナリストの個人なり(あまり大規模ではない)組織なりがあって、そうしたところが生み出した記事を、GoogleなりMSNなりケータイキャリアなりといった「マスメディア」に売るという構造になっていくと思うのだ。もちろん、こうしたところが(そのほうが安上がりだと思えば)内部に記者チームを抱える、という可能性もある(だからヤフーも報道機関になるって言ったじゃない)。日本でも、当事者にその覚悟があるかどうかは知らないが、ヤフーやライヴドアが報道メディアとなるという未来が現実味を帯びてきているように思われる。それは結局のところ、かつて百数十年前、現在のような新聞が生まれた経緯そのものでもあるのだ(アフターアワーズ: 紙新聞への処方箋)。今も昔も、鍵はあくまでテクノロジーとその理解なのである。