アーティストのビジネスモデル
このところ、私的録音録画制度の見直しを巡るあれやこれやに少々足を突っ込んでいる。なかなかややこしい話なので中身についてはあまり触れないが、この問題に限らず結局著作権を巡る諸問題の本質にあるのは、どうすれば今後才能あるアーティストがアーティストとして食っていけるか、ということである。
そんなことは本人たちが考えればいいことだろうというのは確かに道理ではあるのだが、今までそれなりに彼らを(そして若干の寄生虫をも)食わせてきた仕組みが音を立てて崩れつつあり、それが主に彼らとは無関係の外的な要因によってもたらされたものであるというのは否定できない。ある意味で、彼らは被害者みたいなものなのだ。現在は、そうした彼らの問題意識が仕組みをいびつな形で再建する方向に向かってしまっている。それよりは、アーティスト本位の立場で次の方向性を考えたほうが、私たち皆にとって生産的だと思うのである。
音楽のみならず、これからの時代、文章や映像といったコンテンツの生産で食べていくにはどうしたら良いのだろう。CDや本を出してミリオンセラー、というのは、全くの不可能ではないせよ、相当限られたジャンルでないとどうも無理そうである。創作は趣味と割り切ってバイトや副業で食いつなぐというのも一つの答えではあるが、ここでは一応創作専門で、という縛りをかけてみたい。
こうした議論において、Wired誌の創立者、ケヴィン・ケリーが昨年出した文章「1,000 True Fans」はある意味当たり前の話とは言えなかなか示唆的だった。彼の結論を先に言えば、1000人のハードコアなファンがいればアーティストは食っていけるとしたのである。こうした忠実なファンは、もちろんいわゆる「一見さん」ではないが、そのアーティストが出すものは食べ残しのパンの耳から便器のふたに至るまで買うというほどの狂的なファンでもない。ケリーの言に従えば、自分のために年に100ドル、1万円ほど使ってくれる程度のファンである。ライヴ・チケットなら3回分、CDなら4枚分。本なら5冊分といったところか。平均的なファンの支出額よりは相当多いだろうけれども、しかしべらぼうというほど大きな額ではない。
1000人から1万円をもらえば当然年収は1000万円だ。もちろんこれだけでスタジアム・ロックをやるのは無理だろうが、多くのソロ・アーティストにとっては、諸経費を出しても生活費くらいは残る程度の額ではなかろうか。そして、そのようなハードコアなファンは平均的なファンを外から引っ張ってきてくれる可能性が高い。才能があって運が良ければそうした平均的なファンがハードコアなファンになってくれるかもしれないし、そううまくは運ばなかったとしても一回の収入としてはプラスアルファにはなるわけだ。さらに、現在は得体の知れない人々がずいぶん「中抜き」をしているわけで、手売りやウェブサイトからの販売などでファンとの直接取引を心がければ、さらに取り分は上がる可能性がある(もちろんアーティストがやるべき仕事も増えるが、そういう雑用を引き受けてくれるマネージャなりエージェントなりへの需要も増すことだろう)。そんなわけで、これからのアーティストは、ベストセラーというショートヘッドでも気まぐれなロングテールでもない。いわばミディアムボディとでも言うべき部分のしっかりとした確保を狙うべきだ、というのがケリーの主張だった。
これはこれで傾聴すべき意見だと思うが、最近になると、そもそも1000人も要らないのではないかという話すら出てきている。ミュージシャンのマシュー・エベル氏は一般的にはほとんど無名の新進ミュージシャンだが、基本的に音楽活動のみで生計を立てている。彼の収入(額は明かされていないが「家賃を払って車を持ち、好きな物を好きなときに食べられる程度」ではあるらしい)の26.3%は、わずか40人のハードコア・ファンからもたらされたものだ(In Defense Of 1,000 True Fans – Part II – Matthew Ebel)。いわく
インタビュアー: 「1000人の忠実なファンがいれば…」という理論はうまくいくと思いますか?
エベル: もちろんだ。しかし、正直言って生活のためだけなら1000人も要らないと思うよ。うちのウェブサイトに1000人もVIP有料会員がいたら、世界ツアーが出来るだろうね。
さすがに40人は極端な例かもしれないが、ケリー氏の文中でも挙げられていたように、数百人程度のコアなファンに立脚して自分のキャリアを構築するミュージシャンや作家は、このところ増えてきているようである。
ところで補償金問題に限らず、私が日本における著作権の議論に関して何となく腰が座らない思いがする理由は、突き詰めれば将来のアーティストのビジネスモデルが見えない、あるいはコンセンサスが取れていないというところにある。ビジネスモデルというと大層な話のように聞こえるが、ようするに、将来の平均的アーティストとはどのようなものなのか、どういう風に生活しているのか、どうやって稼いでいるのか、というイメージがはっきりしないということだ。
私自身は、将来のアーティスト像とは、ケリー氏が説くような、あるいはエベル氏が体現するような、数百人から1000人程度のファンを抱えた独立フリーランスの(別に組織に属していても良いのだが)「マイクロセレブ」のようなものと想定している。よって、そうした人々が生きやすいような社会や制度に変えていく(あるいは彼らを支援するための教育や技術的なインフラを整える)というのが肝要だと思うし、そのための支援は惜しんではならないと思う。
逆に、たとえ一人あたまに均せば少額だと言っても、ただのんべんだらりと筋の通らない事実上の補助金(地上アナログチューナ非搭載のデジタル録画機器の私的録画補償金は本質的にそのようなものだと私は解釈している)をばらまいても意味がない。別に私のヴィジョンが絶対に正しいと強弁するつもりはないが、結局のところそうした目指す目標のようなものが議論の当事者間で異なるので、いつまで経っても制度設計が迷走するのである。制度は手段であって目的ではない。だから、制度について細かいところを詰める前に、その制度によって何を実現したいのかを入念に考える必要があると私は思うのだ。そのためにも、私は権利者や代理人ではなく、アーティストたち本人が、自分が今後どのような存在として生きていきたいのか、もっと語って欲しいと考えている。