LinusのためにLinuxをフォークするな
筆者のRandall Kennedyは、Con Kolivasのことを「デスクトップ中心のすべてのもののチャンピオン」で、「Linuxコミュニティ内におけるイデオロギー対立の犠牲者」だと大げさに持ち上げている。Con Kolivasは自分のスケジューラパッチが受け入れられなかったので、Linuxに見切りをつけた。Torvaldsとその「”エリート的(geekerati)” 追従者たちの主な関心はエンタープライズ内でのLinuxの拡大、すなわち、多数の並列CPUと大容量ストレージとハイエンドなTPC結果を伴うプロジェクトにある」とKennedyは主張している。
幸いなことに、このような物言いが、何年にもわたってTorvaldsが表明してきた意見と符合しないことを確認するのは簡単だ。たとえば、2003年に彼は私に次のように語った。「私は今でも普通のデスクトップで日常的に使っているし、それが私にとって最も関心のあるものだ。もちろん、私の言う “普通のデスクトップ” とは、ある程度ハイエンドなものだが、それほどハイエンドというわけではない。私がハイエンドなデスクトップをターゲットにしているのは、この数年でそれが “標準的” になると思われるからだ。とはいえ、私たちはローエンドなマシンにも気配りしているので、そうしたものを置き去りにすることはないだろう」
この夏、彼はOneOpenSource.itで次のように語っている。「私自身はデスクトップのことを一番に考える傾向があるが、それはデスクトップが “第一位のニッチ” だからではなく、単に他の領域よりもずっと複雑な振る舞いをする傾向があるからだ。そのため、デスクトップの使用によって、他の多くの、もっと特定的な使用領域では見られない問題が見えてくるのだ」
この話は彼が過去4年間に私に語った内容にかなり近いと思われたが、InfoWorldでの非難の重大さを考えて、私はTorvaldsにもう一度問い質すことにした。Con/スケジューラ論争に関して、Torvaldsは次のように言った。「Ingoのスケジューラのほうが良かったし、彼には保守担当者としての実績がある。事情をよく知りもしない人たちが何故あのスケジューラのことをそんなに大げさに騒ぎ立てるのだろうか」
「これは推測だが、あのスケジューラは多くの人たちが自分にも動作がわかると思っている数少ない事柄の1つであって、それで問題になっているのではないだろうか。スケジューラというのは論争しやすい対象なので、BSDコミュニティで “自転車置場にペンキを塗る(painting the bikeshed)” と呼ばれているような議論になりがちだ。この問題については、誰もが自分に語る資格があると感じるわけで、それで議論が多くなるのだろう」
「デスクトップは、依然として私が個人的に最も気にかけているものであり、実際に使用しているものだ」
Linuxカーネルの実績と、Torvalds自身のこれまでの誠実さと率直な物言いを考えてみれば、Conの嘆きと歯ぎしりのためにLinuxカーネルをフォークするという考えは、レドモンドのエグゼクティブバンカーで懸命に頑張る人たちにしか理解できないだろう。