ナポレオンのロシア遠征と大規模プロジェクト管理の課題
大きな組織が常に良い結果を生むとは限らない
1812年、ナポレオンはロシア遠征のために70万の兵士を集めた。当時としては史上空前の大軍勢だったはずだ。いくつかの精鋭部隊も含まれてはいたが、全体としては決して優秀な遠征軍ではなかった。その理由の1つは、兵士たちの話す言語があまりにも多岐にわたっていて情報伝達が十分に行えなかったことだ。しかも、遠征軍の大部分は、古くから敵対関係にあったか、最近互いに戦った兵士たちで占められていた。そのため、遠征軍は全体としてのまとまりを欠いていた。
また、その規模の大きさゆえに、食糧の調達は困難を極めた。それほどの大軍勢に十分な食糧を供給できる地域は遠征先のどこにもなかったため、ナポレオン麾下のフランス軍部隊が通過した後では食糧を調達することも叶わなかった。それでも進軍の速度を落とすわけにはいかないので、補給部隊の荷馬車が追いつかず、兵士たちを飢餓で苦めることもしばしばあった。
適切な資源と準備を整えたか自問する
世間一般の認識とは裏腹に、ナポレオンのロシア遠征はまったく盲目的に行われたわけではない。彼は数々の地図を揃え、食糧、資源、軍馬の確保には相当な労力を割いていたのだ。そうした本能的な勘は働いたものの、現地でどんなことが起こりそうかについての直接的な情報が彼の手元にはなかった。
地図の上では、進軍に使うべき道路が自ずと明らかになっていた。だが、ロシアにおけるそうした道路の多くの状況がナポレオンにはわかっていなかった。大軍が迅速に移動するにはあまりに狭く、砲兵隊や補給部隊が通るにはぬかるみ過ぎていたのだ。また、ロシアのようなやせた土地では採取や狩猟による食糧調達が不可能に近いことも彼は知らずにいた。
また、せっかく先を見越して物資を集めても、状況に合った適切な物資でなければ意味がない。ナポレオンが集めた無数の小口径砲は、進軍の邪魔になったばかりか、スモレンスクのような城砦都市への包囲攻撃や、ボロディノの戦いのような大規模な砲撃戦では役に立たなかった。さらに、ナポレオンは雪道での行軍に適した先の尖った蹄鉄や防寒具の準備も考えていなかった。
しかし、仮に適切な物資が集まっていたとしても、その苦労の大半は水泡に帰すことになっただろう。というのも、必要なところに物資を供給するという計画の一切を、ナポレオンは頑なに拒否していたからだ。物資の輸送に関する彼の工夫が実を結んだものの1つに、自らの個人用郵便サービスがあった。これにより、彼はパリからモスクワへの手紙を2週間で受け取ることができたが、作戦上はあまり意味のない贅沢だった。
目標と注力対象を定める
あらゆる準備をして大規模な軍勢を集めたにもかかわらず、ナポレオンがその生涯において自身の狙いを明確に定めなかったのは、このロシア遠征のときだけだった。彼はモスクワとサンクトペテルブルクを手に入れたかったのだろうか。それとも、ロシア領土を分割してスウェーデン、トルコ、そして再興したポーランドに分け与えようとしたのだろうか。あるいは、ロシア皇帝アレクサンドル1世に休戦協定を結ばせ、大英帝国からインドを奪おうとしたのだろうか。ロシア遠征の最初の数か月間で、ナポレオンの頭の中ではこれらの目標すべての検討が行われた。心を決めかねていた彼は、いつもの断固たる決意で行動することができず、初期の勝利を活かせないまま主導権を失ってしまった。
こうした迷いはロシア遠征に終始つきまとった。ナポレオンは、退却を始める直前まで(数時間前とは言わないまでも数日前までは)モスクワを去るかそこで越冬するかの決断を渋っていたし、モスクワから撤退するときでさえ、最初はあたかもロシアの主力軍との決戦を考えているかのように南方へ移動してから急遽西に針路を変え、長く辛い帰還への一歩を踏み出したのだった。何がしたいのかをはっきりさせなかったばかりに、大きな成果を1つも挙げられず、成し遂げたことにしても効率良くは遂行できなかったのだが、これは当然の結果と言えるだろう。
部下との距離を縮める
ナポレオンが発揮した統率力は、配下にある部隊との信頼関係に支えられていた。部隊のなかを歩き回ることで、彼は常に兵士たちの士気と戦闘力を肌で感じ、どんなときに懸念の素振りを見せたり処罰を行ったりすれば部隊を鼓舞できるかを知ることができたのだ。彼が姿を見せるだけで部隊の士気が高まることも、しばしばあった。
しかし、ロシア戦役においてこうした陣頭指揮の方法をとることは、ほとんど不可能だった。ナポレオン自身がひどく体調を崩していたせいもあった。また、たとえ体調に問題がなくても、兵の数の多さとその展開規模の広さから、彼が直接的に接触できた部隊は全体のごく一部に過ぎなかった。多くの場合、視察を受けたのは皇帝親衛隊だけだった。この部隊は、ナポレオンの近辺にいたことから忠誠心と士気が最も高く、食糧や備品の供給という面でも一番優遇された。こうした親衛隊の様子から全体の状況を判断していたために、遠征軍の残りの部隊では着実に嫌悪感が増して兵士の脱走が相次いでいたというのに、彼はすべてが順調だと思い込んでいたのだ。
保身のために事実を隠す部下の報告を信用してはならない ― またそうした状況に部下を追い込んでもいけない
遠征初期の頃、ナポレオンは、将軍や元帥たちに各自の部隊について正確に報告するように求めていた。ところが、物資の欠乏や脱走兵の問題について報告を受けると、ナポレオンは彼らに侮蔑の言葉を投げかけることが多く、人々の前で罵倒することもあった。ときには、そういった痛烈な非難に加え、降格や困難な任務への配置転換が言い渡されることさえあった。
こうした状況を目の当たりにした司令官たちは、自分の立場を守りたいなら決してナポレオンに真実を伝えるべきではない、と悟った。遠征当初から、彼らは自らの指揮する部隊の兵力と士気を過大に報告するようになった。こうした誇張された報告によって、適切な計画の立案は妨げられ、ナポレオンはロシア領内奥深くに進軍するまで遠征の難しさを過少評価し続けることになった。
対外発信や積極的思考よりも本質の見極めを重視する
ナポレオンは生涯を通じて自らの運命を信じ、自らの可能性を疑うことなく、困難な時期を乗り越えて偉大なる未来へと邁進していった。こうした信念は彼にとって人生の多くの場面で良い方向に作用したが、それはおそらく、その信念から生じる虚勢が周囲の敵をたじろがせたからだろう。
しかし、地理、天候、広大な土地が敵の軍勢に匹敵するほど大きな障壁として立ちはだかるロシアの状況は、前向きな態度だけでは克服できないほど厳しいものだった。ナポレオンは自らの意志を貫くことを主張するために最善を尽くし、万事が順調またはそうなる見込みだと思わせる声明を繰り返し出した。しかし、いよいよ鮮明に浮かび上がってきた真実に目を向け、それらが否定しようのないものであることを知るについれ、彼がそうした態度を維持することはますます困難になっていった。それでも彼は長い間、強い意志があれば困難を克服できる、と固く信じ続けた。しかし残念ながら、彼が実状を認めた頃には、すでに遠征軍は崩壊しつつあり、補給を絶たれた状態で攻撃の危険にさらされていた。この時点で、彼のとるべき道は撤退しかなかった。
専門家や部下の意見に耳を傾ける
ナポレオンの側近のなかには、先に挙げた困難の多くに対処できる知識を持った人々もいた。例えば、以前ロシア大使を務めていたコランクールは、ロシアの道路事情、採集や狩猟ができない土地の貧弱さ、たとえロシア軍が第一線には優秀な指揮官が少なく退却を重ねてばかりいても、彼らによる徹底抗戦の可能性を高めている政治的な情勢について、ナポレオンに警告していた。しかし、ナポレオンは自らに都合の悪いこうした意見を無視し続け、状況はもはや手遅れというところまで悪化した。彼は撤退する段になってようやく、遠征軍よりも先に帰国するようにとのコランクールの助言を聞き入れたのだった。ナポレオンがその助言を受け入れたのは、おそらく自らに都合の良い内容だったからだろう。
予備の計画を用意しておく
撤退の数週間前から、ナポレオンには撤退に至る可能性の高さがわかっていた。でなければ、不毛な敵地で冬を越すしかなかったのだ。にもかかわらず、敗北を認めたくなかった彼は、撤退の準備を一切行おうとしなかった。依然として、ロシアを除くヨーロッパ中で徴集された兵力が、フランスから最も遠い占拠地であるモスクワを目指し、考えられる安全なルートを外れて強行軍を続けていた。また、途中の補給物資の蓄えもまったくなかった。さらに、退路に沿って偵察隊が出されることもなかった。唐突に退却の決断を下したとき、ナポレオンは何の準備もしていなかった。そのことが撤退をさらに悲惨なものにしたことは間違いない。
ときには不要な資源を手放さなければならない
ロシアへの侵攻時、フランス軍は、ロシアの道路事情にそぐわない何百もの軽野戦砲や荷馬車など、無用の装備の数々を運搬してきていた。しかし、ナポレオンはこうした装備の破壊や放棄を認めず、一緒に運ぶように主張した。こうした彼の頭の固さは侵攻を遅らせただけだった。
撤退時はさらにひどいことに、遠征軍は可能な限りの戦利品をモスクワから運んでいた。ポケット一杯に詰められベルトに吊り下げられた戦利品は、兵士たちの動作を鈍らせたばかりか、それらを積んださまざまな運搬手段の移動も困難にした。やがて退路のあちこちに高価な品物が散乱することになるのだが、戦利品を持ち帰ろうとした判断のせいで何千という兵士が倒れた。そうした財宝を狙うコサックの襲撃から逃れられなかったり、次の前哨基地への到着が遅れて食事にありつけなかったりしたのだ。
何かを失って得られるものもある
ボロディノの戦いのように勝敗の判断が難しいものも多いが、ロシアでナポレオンが戦闘に破れたことは一度もなかった。むしろ、従来の基準に従えば勝利を収めたとも言える。ナポレオンの遠征軍は、かつての都とはいえ最大にして最も重要な都市モスクワ(当時のロシアの首都はサンクトペテルブルク)を占領し、莫大な財産を持ち帰ろうとしたのだ。だが、兵士や軍馬の数は疾病、脱落、飢餓、置き去りによって着実に減り、補給物資も少なくなる一方だった。モスクワでの略奪を終えた後、ナポレオンは撤退に追い込まれた。敵からの執拗な襲撃に悩まされていたが、応戦できるだけの騎兵がいなかったのだ。自軍の中にいながら戦闘を十分に掌握することも用兵を変えることもできなくなった彼は、遠征軍を見捨てて急ぎフランスに帰国した。結局、フランスに戻れた兵士は、元の兵力のわずか3%強にあたる22,000名に過ぎなかった。
まとめ
ナポレオンは聡明な指揮官であり、歴史上最も著名な人物の1人だ。しかし、彼ほどの才能を持つ人でさえこうした過ちを犯し得ることからも明らかなように、失敗は誰にでもある。準備の不足や重点目標の不十分な絞り込み、絶対に自分が正しいという思い込み、客観的な状況判断の拒否、かつて成功した手法でのリーダーシップ発揮の失敗、これらすべてがナポレオンの生涯最大の失敗につながったのだ。
3年後、彼は皇帝を退位して国外追放となるが、最期を迎える前に一度は復位する。しかし、ロシア遠征によってフランスの軍事力はすっかり衰えており、不敗を誇った彼の名声も地に堕ちてしまう。ロシア戦役の後、フランス統治下にあった地域は、増え続ける敵対勢力に立ち向かうために絶えず戦火に見舞われた。最後にベルギーのワーテルローで英国のウェリントン公爵(頭脳の明晰さと実直さで知られている)と対戦して破れたナポレオンは、永遠に皇帝の地位を失うことになる。結局、ナポレオンの終焉の始まりは、ロシア侵攻時に適切な計画を欠いていたことにあったのだ。
Bruce Byfieldは、NewsForge、Linux.com、IT Manager’s Journalに定期的に寄稿しているコンピュータジャーナリスト。
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