Wikipediaを巡る愉快な実験と不愉快な結末

去る2月、シカゴ出身のスコット・キルドール氏と南アフリカ出身のナサニエル・スターン氏という二人のメディア・アーティストが、Wikipediaに記事を執筆した。その記事は、既存の何かを説明しようとするものではなかった。むしろ、今までにないものを作りだそうという試みの一部だったのである。というのは、彼らは記事そのものをアートとして扱おうとしたからだ。彼らはそれを「Wikipedia Art」と呼んだ。

愉快な話

なんのことやらという方も多いと思うので少し補足的な説明をすると、美術界には60年代以降、Land ArtとかEarthworksと呼ばれる一連の流れがある。自然の地形や人工建造物を利用して作品を構築するコンセプチュアル・アートのことだ。当人たちは自分のことをランド・アートの作家と見なしていないらしいが、マイアミの島々やドイツ帝国議会議事堂(ライヒスターク)のような歴史的建造物を布で「梱包」したクリスト夫妻あたりは、中学の美術だったか社会科だったかの資料集に作品の写真が載っていたから、あるいはごらんになったことがある方もおられるかもしれない。

その伝で行けば、Landの代わりにWikipediaをバックとした作品を作り、見慣れたWikipediaの風景が一変するのを狙うというのがWikipedia Artの目的ということになる。なので、クリストに対しておまえの家でも梱包していやがれというのが(芸術的に)無意味であるのと同様、そんなことは自分で立てたWikiでやれという常識的な批判はやはり(芸術的に)無効である。なお、ランド・アートの多くが風化や破損を最初から織り込んでいたのと同じく、第三者によるWikipediaのルールに則った編集やコラボレーションは最初から想定されていた。

好意的に見れば、Wikipediaも芸術の素材になるくらいメジャーになったということで言祝ぐべきことかもしれない。しかし当たり前だがこんなのはウィキペディアンにとっては迷惑な話で、彼らの記事(あるいは芸術作品)が「オンライン百科事典」としてのWikipediaの趣旨に合うかどうかは怪しいものだ。よって15時間後、Wikipedia Artの記事は削除された。おそらく、削除されるのは書いた当人たちにとっても最初から織り込み済みだっただろう。

Wikipedia Artのやろうとしたことは、私個人としてはなかなか面白いと思うけれど、まあ、はっきり言ってしまえばコンセプチュアル・アートにありがちな「ちょっとした思いつき」に過ぎない。作品そのものが面白いかどうかはともかく、そうしたことをやってみるという過程全体がアートだ、というわけである。実際、Wikipedia Artの作品はついに生まれなかったわけだが、扱いを巡って「芸術とは何か」についてまで話が飛んでいったウィキペディアンらの削除を巡る大まじめな議論のシュールさは、何とも「芸術的」である。これは、なんでそんな大上段の議論になるのかさっぱり分からない(とっとと消せばいいじゃないか)という意味でも十分アートだし、こういったものを引き出しただけでも彼らの試みにはそれなりの意味があったと私は思う。ウィキペディアンに同情はするが。

ここまではまあ、少なくとも第三者にとっては愉快な話だ。しかしこの後は誰にとっても不愉快な話である。

不愉快な話

Wikipedia Artを仕掛けたキルドール氏とスターン氏は、一連の出来事を記録するためにwikipediaart.orgというウェブサイトを立ち上げた。そこに、Wikipediaの運営団体である。Wikimedia Foundationの顧問弁護士ダグラス・アイゼンバーグ氏から書状が届いた(一連の法的やりとりの記録)。ドメイン名の一部にWikipediaという商標を使っているのは商標侵害だ、よってドメイン名をWikimedia Foundationに譲渡するか、さもなくばドメインスクワッターとして見なし、法的手段によって取り上げるというのである。

一応、ブログ等の内容やドメイン名において非商用目的で商標名を引用するのはフェアユースという判例がアメリカでは出ているそうだが、民間におけるドメイン名衝突解決の場であるICANNのUDRP裁定では、より著名な側、今回の場合ではWikipediaに有利な判定が出ることが多いようだ。しかし、今までフェアユースの恩恵を存分に被ってきたWikipediaがこういうことをするとは、ずいぶん皮肉なものではないか。

私は保守的な人間なので、たとえばどこぞの壁に落書きするのが芸術家の誉れだとは思っていないし、適宜取り締まるべきだとも思っている。しかし、バスキア気取りの自称アーティストを逮捕したり罰金を科したり掃除させたりするのが正当なのと同じくらい、そうしたものが本質的には芸術活動、表現行為であること自体は疑う余地はない。ましてや、そうした行為について別途他のところ(たとえば自分のブログ)で言及するに至っては、フェアユース云々以前に、完全に表現の自由に属する行為であろう。

ゆえに、Wikipediaが記事を削除するのは全く正当なことだが、消された側がそれについて自分のところで言及するのを、商標をたてに法的手段をちらつかせて止めさせようとするのは、全く支持出来ないのである。一応Wikimedia Foundationの最高顧問弁護士マイク・ゴドウィン氏はのちに、「法的手段を取るとは書状のどこにも書いていない」と弁明しているようだが、最初からドメインスクワッター扱いするというのは、私の考えでは十分な脅しである。

FSFやGNUも不当に(たまには正当にも)批判されることは多いが、仮に批判者に対し、GNUを批判するならおまえの文章にGNUという文言を入れることはまかり成らん、もし消さなければ商標侵害で訴えてやると言い出したらどういうことになるだろうか。FSFが今までそれなりに積み上げてきた信用は一挙に崩壊するだろう。それに似たことをWikimedia Foundationはやろうとしている。私は大変失望した。

もっと言えば、今回のWikipedia側のやり口は、そもそも彼らにとってあまり賢いものとは思えない。現実問題として、Wikipedia側に何も良いことがないからである。ほっておけば前にそういうこともあったねくらいで済んだはずだったのが、商標使用のフェアユースに関する判例を引き出した当の弁護士ポール・レヴィー氏がボランティアでWikipedia Art側の法的代理人を引き受けており、また今まではWikipediaと蜜月関係だったEFF(電子フロンティア財団)のブログDeep Linksでも厳しく批判されている。有力技術メディアのArs Technicaも論説を出した。ブログ界でも相応に話題になるという事態となっている。ようするに、Wikipedia Artの連中が欲しいもの、注目を与えてしまっているのだ。単に火に油を注いだだけなのである。

日本で同様の事態がある/あったのかどうか良く知らないが、ぜひ他山の石としたいものだ。