ヒスパニック・リナックスの挑戦 (1)

 スペインのエストレマドゥーラ自治州は、独自のスペイン語Linuxディストリビューションを開発して全州に配布した。彼らのこれまでの取り組みについてレポートし、日本での導入事例との比較と今後の展望を行なう。

州政府のオープンソース戦略

昨年2005年4月に愛知万博のスペイン館において、日本の小中学生を招いたプログラミング講習が行なわれた。愛知万博のアナウンスではプログラミング言語Squeakが主眼のようにも思われるが、参加された日本のSqueakコミュニティの方の日記(2005-04-19,2005-04-22)によれば、Squeakだけでなく州が独自に配布しているLinuxディストリビューションの説明も行なわれたようだ。 このエストレマドゥーラ州使節団は東京でもプロモーションを行ない,日本の開発者コミュニティからはFSIJ(フリーソフトウェアイニシアティブ)が招待された.この時の話は,日本Linux協会blogやFSIJによる参加報告でも紹介されている。

筆者は以前、この州の話を以下のインタビュー記事で読んだ記憶があった。

エクストレーマドーラ[原文ママ]という州。そこはEUの中で一番貧しい地域だった。そして自由なソフトウェアを全てにおいて導入することで、経済復興をITでやろうとしている。それには学校も含まれている。2人に1台のコンピュータを与え、わざと2人で共同して使わせることで助け合うことを学ばせている。そして、それにはGNU/Linuxが走っていて、ディストリビューションは彼ら独自のものだ。
ロージナ茶会「リチャード・ストールマン氏へのインタビュー」, Internet Magazine 2003年8月号.
この記事を読んだ時には単なる実験的な試みだと思っていたのだが、万博でのプレゼンテーションではこれは州政府の長期プロジェクトだということが伝わってきた。同州の愛・地球博での出展用のDVD-ROM「エストレマドゥーラ州政府:"エストレマドゥーラ: テクノロジーとフリー・ソフトウェア"」をFSIJよりいただくことができたので、この州の取り組みについてさらに詳しく報告したい。 IT投資とフリーソフトウェア

エストレマドゥーラ州が位置するスペインとポルトガルの国境地帯は、ヨーロッパ連合(EU)でも最も貧しい地域の一つである。エストレマドゥーラ州スペイン国内で1番目と2番目に大きな県を抱えるにもかかわらず、州の総人口は100万人あまり、しかも10万人以上人口を抱える自治体は州都バダホスだけ、という過疎の田園地帯である。 このエストレマドゥーラ州は、ヨーロッパではじめてLinuxを大量導入した自治体として報道され、世界的に注目を集めた。初期の報道では「州民すべてにアクセスを提供するにはフリーソフトウェアを使うしかない」という経済的な理由で採用されたかのように報道されている(Hotwired Japan 報道)。しかし、州の担当者本人の談話を読むと、どうもコスト削減といった経済的な理由でLinuxを採用したとは言っていない。

米国社会科学研究評議会(SSRC)の報告書でも「この州はフリーソフトウェア支持をもっぱら自由や独立といった政治的で観念的な言葉で説明している」と指摘されているが、担当者は、Linuxは「無料」だから採用するとは言っておらず、Linuxの素晴らしさを「自由」といった社会的なタームでしか語っていない。たとえば,大臣はLinuxの導入政策について次のように発表している。
「人々の自由と平等を推進するには、知識という人類の財産を誰かが独占することなく全ての人に届くものにする技術革新を導入することこそが政治のとるべき道である」 (
"the best policy is the application of technological innovation to promote freedom and equality for citizens, taking advantage of and placing within the reach of all, something that is not the exclusive property of anyone in particular: the knowledge accumulated by Mankind throughout history.")
"Regional strategy of the information society in Extremadura"
ヨーロッパ初のGNU/Linux大量導入は「全ての人に自由と平等を実現する」という目標の下に実施されたのだ。 これまで筆者は、お役人はフリーソフトウェアをただの安いツールだとしか思っていなくて、無料でありさえすればソースコード非公開でもよろこんで使うんじゃないか、と思っていた(山形浩生『コモンズ』訳者あとがきでも似たようなことを言っている)。しかし旗振り役をつとめる州大臣がIT戦略として「自由」のためのフリーソフトウェアについて語るのは驚きだった。

政治が技術革新を通じて「民主的で公平で自由な社会」を実現するとはどういうことか、具体的に検証したい。 まず州政府は、貧困地域へのEU基金を使って、州内に点在する全教育施設と公共施設を繋ぐ高速ブロードバンドの地域イントラネットを構築し、特に州の人口の大部分が住む農村部を中心として情報教育センターを配備している。DVD-ROMによる説明によれば、エストレマドゥーラ州の各教育施設は独自のサーバを持ち、全ての教育施設にはサーバのメンテナンス及び教師に対するテクニカル・サポートとして技師が1人ずつ配置されている。それぞれのPC教室では、中等教育以上では生徒2人につき1台、初等教育では6人につき1台のパーソナルコンピュータを設置している。その総数はすでに60,000台に達し80,000台へ届く見込みである。総人口100万人あまりの田園地域とはいえ、生徒2人につき1台のPCという割合はEUでも最高の環境である。 この2人につき1台という割合も理念に沿ったもので、ストールマンのインタビューにもあるように、学校のカリキュラムはコンピュータを「二人一組」で使うように設計されており、自分の知識をコンピュータを使って表現し、その成果を共有する協働作業が目指されている。つまり学校での学習がペアプログラミングのように行なわれている。1990年代にこのような制度設計を行った洞察には驚かされる。

そしてそれらのコンピュータに導入されたのが、全州民のための独自ディストリビューションである。同州はDebian GNU/Linuxを独自にカスタマイズしたスペイン語版Linuxパッケージ「gnuLinEx」(ニュー・リネックス)を配布している(もともとはLinExという名前だったのだが、Debian ProjectがGNU/Linuxという呼称を採用するとgnuLinExに改称した)。 このgnuLinExについては、「gnuLinExの理念とイベリコ豚の生ハムを追ってスペインに移住した」と公言する開発者自身による解説をLinux Journelのウェブサイトで読むことができる("gnuLinEx: Foundation for an Information Society", "gnuLinEx 2004 Launched")。

「どうしてたかが人口100万人程度の田舎のディストリビューションに注目するのか?」と思われる読者がおられるかもしれない。これにはいくつかの理由がある。まずこのプロジェクトは欧州委員会(EU)の資金援助を受けたパイロットプロジェクトでもあり、今後のLinux導入を考える上で世界各地の政府から注目を集めている。またエストレマドゥーラ州政府自らも、スペイン国内の他州だけでなく全世界に対してgnuLinExの共有を通じた知識社会への参加をひろく呼びかけている。たとえば州政府が定期的に開催する国際会議(http://www.opensourceworldconference.com/)ではアルゼンチン、サルバドール、ニカラグアといったスペイン語圏の地方政府による導入事例が報告されているし、さらに遠くはマレーシアの州政府も「エストレマドゥーラ・モデル」の採用を検討している(Open Source News報道)。 また、Debian創設者のIan Murdockの声明にもあるように、地方のニーズを満たしつつ孤立化に陥らないプロジェクトの基盤となるというDebianの試みとしても重要なものだと言えるだろう。

本稿ではgnuLinExの背景および概要について紹介した。次回後半はエストレマドゥーラのキーパーソンや学校教育および産業振興、そして日本国内の類似プロジェクトとの比較を行ないたい。

付記: 本稿は総務省通信政策局編集・電気通信振興会発行の「情報通信ジャーナル」誌掲載記事と一部重複する部分がある。”