Progenyの改革:FOSS企業がいかにしてドットコム崩壊を生き延びたか

2001年6月、Progeny Linux Systems社は危機に陥っていた。共同創立者で当時のCEOのIan Murdock氏は、状況を見渡し、会社が生き延びるには根本的な変革が必要だと悟った。数年後、Progeny社は社員数も以前と同程度にまで回復し、多少なりとも利益を出せるようになった。同社は、当時の状況を切り抜けた数少ないフリー/オープンソースソフトウェア(FOSS)企業の1つでもある。会社がどこで方向を間違えたかに関するMurdock氏の解釈を聞き、同社の改革の経緯をたどることは、新興企業、特に新しいFOSS企業にとって実践的な参考になる。

Progeny Linux Systems社は、2000年初めにLinux Capital Group(Bruce Perens氏が共同創立者で代表を務めたがすぐに消滅したベンチャ)からの少額の資金援助を得て始めた会社だ。Progeny社は、5月までに急速に人員を集めて、Spriteの更新版であるLinux NOW(Network of Workstations)の開発に着手した。Spriteは、カリフォルニア大学バークレー校で開発された研究オペレーティングシステムで、ワークステーションのクラスタを単一のシステムイメージにするものだ。

Progeny社は、Linux NOWへの第一歩としてProgeny Debianの開発も始めた。これは、Debianの安定版とテスト版を併せたものを基にしたディストリビューションで、Progeny社が開発した管理ツールが付属する。Progeny Debianはすぐにそれ自体独立した目的になり、メーリングリストも活発化し、2001年4月にはリテール版がリリースされた。

創立から約1年経った2001年5月までには、Progeny社の社員は20人を超えた。社員たちのやる気は高まり、ある社員などは全社総会で「引退するならこの仕事をやってからにしたい!」と叫んだという。事業計画のとおり、急速に資金もなくなっていったので、追加の資金を投資してくれるベンチャーキャピタルを探す予定だった。だが、Progeny社はドットコム崩壊は想定していなかったのである。

初心者の過ち

Progeny社も多くの新興企業と同じ間違いをした。Murdock氏によれば、振り返ってみるとProgeny社は最初の年にいくつか重要な過ちを犯しているという。

  • ほかの多くのドットコム企業と同様、Progeny社も立ち上げ時から見境なく雇用を急ぎ過ぎた。Progeny社の多くの社員がDebian開発者で社員候補の人脈があったことが、雇用増進を助長したのかもしれない。Murdock氏が今思うに、当時Progeny社には資金があり、会社の組織作りを具体的に進めていることを幹部が投資家たちに示したがったというだけの理由で、人を雇わざるを得ない空気があったという。Murdock氏は「組織全体のどこに配置するのが適切か明確でない人も採用する場合がありました。人材を集めなければいけない、何かしなければいけいないという雰囲気に迫られていました」と振り返る。当然ながら、このような採用のやり方は、会社の本質にとって意義のないことだった。

  • もっと重要なことに、当時の最高財務責任者で現在は取締役の1人であるBern Galvin氏を除けば、Progeny社の幹部は誰一人、ビジネスの経験がなかった。Murdock氏自身もそうであるように、ほとんどがプログラミング分野出身だった。Murdock氏は自分の経験不足を痛感し、 Bern Galvin氏と地元インディアナポリスのベンチャー投資家Garth Dickey氏の指導のもと、懸命に勉強した。Murdock氏は今、総体的に見て「ほとんど何も知らなかった割には、なかなかよくやった方だと自分で思います」と話す。といっても、少人数で働き過ぎの社員で構成される新興企業を経営しようというときにビジネスの基本を学ぶのは、最高の時期とはとてもいえない。

    Murdock氏によれば、この経験不足は事業計画に最もよく現れていたという。Linux NOWは大規模なプロジェクトで、最低でも開発に1〜2年を要し、即座に利益が出る見込みはあまりなかった。Murdock氏は、「とても大胆な事業計画でした。基本的に資金が継続的に追加されると踏んだ内容になっていました。それが当時は普通だったのです。6ヵ月か12ヵ月たったら市場に出て行けば次に進むための資金を調達できる、ということは事実上保証されているといっていいほどでした」と振り返る。

    実際、Progeny社はいつでも資金を調達できると考え、1年目には資金援助を辞退している。同社の資金調達を第2ラウンドまで延期する上で、Murdock氏は「会社はもっと大きくなる」だろうから、投資家にとってもより魅力的な会社になると推定され、したがってその頃には「株式を売る見返りとして失うものも少なくなるだろうし、既存の株式保有の価値も下がらない」と考えていた。

    だが、2001年6月に追加の資金投入が必要になったときには、ベンチャーキャピタルの資金がもう底をついていた。創立当初の2000年初めにLinux Capital Groupが一度の会議で同社への援助に同意したときは、Perens氏とMurdock氏は互いに面識はなかったもののどちらもDebianを通して互いの評判を聞いていたということがひとつの理由だった。それから1年後、Murdock氏は6ヵ月間ベンチャーキャピタルに打診して回ったがうまくいかなかった。同氏はビジネスに不慣れなため、ドットコムブームに乗ったほかの多くの会社と同様、崩壊の兆しを予見することも見極めることもできなかった。気づいたときにはどうすることもできないほど手遅れになっていた。

    危機との対決

    2001年6月に崩壊が起きたとき、Progeny社は2つの問題に取り組まなければならなかった。運営コストを削減することと早急の収入源を確保することだ。当座の危機が終わって初めて、同社は将来を考え始めた。

    即座に人員が半分に削減された。この削減で会社が荒廃するおそれもあったが、Murdock氏は残った社員の意欲の高さで補えると考えた。このとき解雇された者の何人かは、後日、資金が許す範囲で契約社員として再雇用した。さらに、Murdock氏自身も責任を感じて給料を返上し、ユタ大学で研究業務をして数ヶ月をしのいだ。社員たちはみな、将来が不安な長い「警戒期間」を耐えたが、この危機への反応は予想したほどひどいものではまったくなかった。Murdock氏は「何か影響があったとしたら」危機を切り抜けたことで「団結が強まった」ことだという。

    コストは抑えたものの、Progeny社はまだ緊急に資金が必要だった。理論上は、Progenyのリテールリリースが会社の第一の収入源だったが、実際のところその額は少なかった。Murdock氏によれば、Progeny Debianをダウンロードしたユーザは50,000人以上いたが、最終的に購入したのはそのユーザベースの「2%もいなかった」という。この危機に直面して、Murdock氏は、Progeny社が「長期的な営業開発の対話」をしてきたいくつかの会社に打診して仕事がないか聞いて回った。

    そのような要請をすることは交渉においてあまりよい立場といえないことを認めながらも、Murdock氏はこう付け加えた。「想像するほど悪くはなかったんです。選択の余地はほとんどなかったのですから。でも、確かに屈辱的でした。それまでずっと胸を張ってほかの会社にいる友だちにいいところを見せようとしてたのに、突然、恭しく帽子をとって、危機にひんしているので助けが必要です、といわなければならないのですから」

    幸い、いくつかの会社から好意的な回答があった。その中にはHewlett-Packard社もあり、Progeny社はHPのためにDebianをItaniumプラットフォームに移植する開発作業を始めた。また、ほかのDebian関連製品にも取り組んだ。2001年8月には、同社は初めて実質的な収益を出した。

    当面の危機を切り抜けた後、Progeny社は会社自体の改革の長い道のりに踏み出した。2001年10月、同社はProgeny Debianの終了を発表した。その1ヵ月後、Linux NOW開発の終了も正式に発表した。これらの発表は、長い沈黙の後で行われ、同社がまだ問題を抱え続けるかのように見えたかもしれない。実際はそうではなく、Progeny社は、一般向けに製品を出すのをやめ、ほかの企業にサービスを販売するカスタムソフトウェア開発の会社になろうしていたのである。

    Progeny Debianが結果的に失敗だったというわけではない、とMurdock氏は急いで付け加えた。確かにこの製品は営業的には失敗した。だが、同社がこのディストリビューションを構築したという純然たる事実は、同社がDebianを理解し、何千人もの人がダウンロードするような製品を開発できたということを立証した。もしProgeny社がProgeny Debianを開発していなかったら、同社に新しいカスタム開発契約を請け負う技術があるという明確な証拠がなかっただろうと、今Murdock氏は考える。

    2001年の残りと2002年に、Progeny社は引き続き改革を行った。コアDebian技術からRed Hat開発へと事業を拡張した。クライアント用のカスタムディストリビューションの販売にかかる時間を節約する取り組みとして、Platform Servicesの開発も始めた。FOSSの資格を維持するという会社の方針を守り、同社のPlatform Servicesのコンポーネントのほとんどはオープンソースだ。その1つの成果であるdiscoverは、新しい Debianインストーラに 自動ハードウェア検出機能を提供するツールである。

    この時期に会社を少しずつ拡張した。Murdock氏は、「やってもらう仕事がある場合しか人は採用しません」という。Murdock氏自身も、今度は最高技術責任者としてまた給与を受け取るようになった。会社の共同創立者の1人として事業戦略には引き続き参加しているが、Murdock氏自身は日常的に技術的な立場にいる方が適任で快適でもあるという。この変化についてMurdock氏は、「自分が得意で好きなものを見つけるべきです。そして自分がやりたくない、またはできないことをうまくできるほかの人間を見つけるべきです」

    この哲学に従い、2002年10月、Murdock氏はProgeny社のこの変革の仕上げに、自身の指南役のGarth Dickey氏を最高経営責任者として迎えた。Dickey氏は、Murdock氏が資金援助を打診したベンチャー投資家の一人だった。今、Murdock氏は喜んでこう話す。「彼から資金は得られませんでした。でも、もっとよいもの、本人を獲得できたのです」

    それ以来、Progeny社の毎月の収支はとんとんか、わずかながら黒字だ。利益は会社に再投資してきたので、Progeny社はかつての規模にまで成長した。ドットコム時代のあらゆる新興企業が夢見たような大成功企業でないとしたら、ほとんど同じくらい稀な生き残り企業といえるだろう。

    アドバイス

    FOSS市場にこれから参入する新しい会社の経営者にどんなアドバイスをしますか、という質問に答えて、Murdock氏は3つを挙げた。

  • まず、Progeny社が資金援助の申し出を辞退したことを顧みて、Murdock氏は、「資金援助を断らないこと」とアドバイスする。ベンチャーキャピタルがIT企業全般、特にFOSS企業への投資を今も警戒していることに言及した上で、「今はもうそんなに多くを語る必要はないでしょう」と話した。

  • 第2に、Murdock氏は自分たちでことを成そうとしている起業家に警告する。Murdock氏は、起業するタイプのA型人間は、ビジネスに実践的に参加することに慣れているだろうが、こうした姿勢は会社を育てる上で現実的ではないという。それより、「自分が得意なこと、好きなこと、ほかの人にできないことを見つけてください。そして、自分を補ってくれる優れた人材を集めてください」という。

  • 最も重要なことに、Murdock氏は、「たっぷり時間をかけてきちんとした事業計画をたててください」という。今日の保守的な景気状況下で資金調達が必要な企業にとって、しっかりした事業計画が必要不可欠な基本事項であることは当然ある。だが、Murdock氏にとっては、事業計画はふだん会社を経営する上での指針でもある。事業計画とは「すべてを飲み込み、不備と着想を探り、採用する人材に会社の考えを伝え、なぜこれをやってこれをやらないのかの理論的根拠を示すためのものです。これはいくら強調してもし過ぎることがないほどです」という。

    こうした目標を実現するには、事業計画は絶えず書き改めていかねばならないという。自身の経験を振り返って、「柔軟でかつ迅速でなければなりません。周囲の状況は変わるのですから」と説明する。

    最後に、事業計画には、できるだけ迅速に収入の流れを開発する目標を組み込む必要があるという。この目標を達成するには、「シンプルにすることです。夢のような計画は立てないこと。多額の資金がなくても実現できる事業計画をたてることです」

    Murdock氏は、この5年間で学んだことを一言でまとめて、「私は5年前より現実的になりました」と話した。

    Bruce Byfield――2000年5月から2001年5月の間、Progeny社に在籍。現在はフリーランスのコースデザイナ/インストラクタ、テクニカルジャーナリスト。

    原文