近代社会とオープンソース

MicrosoftがLinuxよりも ― 少なくとも技術的な優劣よりも市場での存在感に影響されてしまう人々の間では ― 普及しているという事実を受け入れざるを得ない。
現代における最大の権力は、社会における「雰囲気」なのだろう。近代社会の仕組みそのものが、世界各国のオープンソース業界に、共通の雰囲気を作り上げ、そして日本特有の構造(というか、欧米との差異)が、日本のオープンソース業界に固有の雰囲気を生む。と思う、たぶん。内藤朝雄の指摘――日本では中間集団全体主義が強い、という視点を軸にしながら、今後はオープンソース界隈の事象を捉えていきたい、と考えていたりなんかして。 インターネット、オープンソース、UNIX――これらのものがアカデミズムという(左翼的な)場で花開いたことは忘れてはいけないと思う。必要最小限の原理に身をゆだねるという態度は、どの世界においても一般的なものではない。そして、「カスタマイズの自由度が高い」「ランニングコストが安い」……こうした視点で製品決定を行うのもまた、原理に身をゆだねていることに他ならない。 だとすれば、オープンソース、というソフトウェア業界の「専門家」は、どのような形で消費者という「大衆」と関わりあうべきなのか? どういう可能性を作り上げることが出来るのか? その切り口となる問題の枠組み、シナリオ。そういったものを見つけたいな、なんて考えちゃったりしている。