GPLv3に関するメモ

1週間前、かねてから期待されていたGNU General Public Licenseの第3バージョン(GPLv3)の最初の検討用ドラフトがMITからリリースされたことは、フリーソフトウェア運動の大勢の中心人物たちにとって、少なからぬ数の法律家を含め、不意討ちだった。Fortune 500企業の部門責任者クラス、グローバルビジネスユニットの幹部社員、社内の法務部門、そしてフリーソフトウェア界の有名人も例外ではなかった。歴史的な、非常に重要なことがまさに目前に迫っている、誰もがそう感じた。

新しいGPLのドラフトは非常に重要であり、リビジョン・プロセスにおいて不安定な状況に置かれる。Linuxカーネル、GNUプロジェクトの開発ツールチェーンの圧倒的多数、そしてあらゆるフリーソフトウェア・ライセンスの下にあるプログラムの7割はGPLv2の条件下にあり、そのほとんどは”以降のすべてのバージョン”の条件に従うと定められている。

GPLは、その普及度の高さから”フリーソフトウェア運動の憲法”と呼ばれることも多い。改正が加えられるときには、検討用ドラフトがフリーソフトウェア運動を脅かす芽にもなりかねない。この危険の存在は事実だが、コミュニティの多くが思うほどの範囲や理由で存在するわけではない。ある意味、GPLv3の重要性は、私たちの多くが考える以上でもあり、以下でもある。

一方で、GPLを”フリーソフトウェア運動の憲法”と呼ぶ人々は、このライセンスの重要性を誇張する。憲法とは、政府の政治上の原則を定める法的文書である。他のすべての法律が従う法律、それが憲法だ。

フリーソフトウェア運動にこの種の文書はあるにはあるが、それはGNU GPLではない。それは、Free Software Definition(FSD)である。FSDでは、フリーソフトウェアは、Richard Stallmanの有名な4つの自由(コミュニティとしてのソフトウェアの使用、研究、配布、改変の自由)を満たすソフトウェアと定義されている。FSDには、あらゆるフリーソフトウェア・ライセンスが従うべき原則が明文化されている。FSF自身のライセンスであれ、GPLであれ、FSDに忠実でなければならない。

GNUプロジェクトでは、倫理上の理由からFSDの原則が支持されるが、同じ原則はOpen Source Definition(OSD)とDebian Free Software Guidelines(DFSG)という形でも表現されている。これらの文書によって、フリーソフトウェア運動の憲法が形作られている。これらの文書の中で、新しいGPLの一部として大幅に改訂されるものはない。フリーソフトウェアの新しい原則を扱う検討用ドラフトは存在しないのである。

もっとも、フリーソフトウェア運動の原則は、現在のGPLリビジョン・プロセスからは脅かされないが、このプロセスの期間やそれ以降に私たちが結束したコミュニティとして活動できるかどうかは、前ほど確かではない。GPL検討用ドラフトがコミュニティの関心と努力を必要とするのは、このあまり表面には出ていない理由からである。要するに、フリーソフトウェア、オープンソースソフトウェアは、風変わりな同宿者の一団なのである。資本家と反資本家、地球の反対側にいるあらゆるタイプのハッカー、政治的なさまざまな党派、ありとあらゆる言語または文化の壁などの。

コミュニティが結束に至った過程は、私たちを除くすべての人を驚かせた。その結果、誰もが、私たちですら、想像もしなかった成功を収めることができた。共通の原則を樹立するため、そしてそれと同じぐらい重要なことだが、フリーの、主にGPL化された多くのソフトウェアを共有するため、私たちは結束したのである。

GPLは、フリーソフトウェアとオープンソースソフトウェアのコミュニティに属するほぼ全員が共有するものの1つである。そういった理由から、今回のリビジョンには、反対や意見の相違、ビジネスモデルにおける相違、戦術における相違がひときわ目立つ可能性がある。このような相違は、これまでなかったものではないが、新たな発表の場を得ることになりそうだ。

関係者全員の意見が通るとは思えない。だから、15年前、GPLv2がドラフト段階にあった時期を思い出してみる必要がある。このときも意見が通らない人がいた。それでもうまくいったのだ。ライセンスは他にも存在しているし、フリーソフトウェア運動は、1つの意見、1つのライセンスに統一されないほど大きいのである。GPLリビジョンの数字が変わっても、そこは変わらない。GPLが私たちの共同作業の幅を狭める可能性が、FSFへの最高に過激な文言の変更からもたらされる可能性よりも、ずっと危険であることを覚えておくようにしたい。

先週もそうだったが、来年は、私たちはコミュニティとして、最も重要なライセンスをできるだけ良いライセンスにするために協力して取り組むことになる。最初の目標は、コミュニティで共有される原則からライセンスを逸脱させないことだ。

第二に、フリーソフトウェアのいかなる定義にも縛られない戦術的な決断を具現化するためにGPLは設計される、ということを理解する必要がある。コピーレフトは、そういった戦術の1つに過ぎない。FSFのライセンスに合意するためにFSFの戦術的な決断に合意する必要はない。GPLが自身のこれまでの戦術と独自の歴史的目標を踏襲しようとしていることには、敬意を払う必要がある。

以上のことに加え、ライセンスの改良に共同で取り組む作業を効果的にするため、以下の問いかけに自問しながらライセンスの条項に検討を加える必要があるだろう。

  1. GPL検討用ドラフトは、私たちの理解どおりに4つの自由に従っているか?
  2. 前バージョンのGPLに記されていた原則と目標に従っているか?
  3. フリーソフトウェアの発展を妨げる、実害のある問題、不便、または不快な要素が加わっていないか?
  4. 現在GPLソフトウェアに貢献している人々の活動を妨げる可能性がある問題が加わっていないか? 同様に、将来の貢献や実現の可能性のある貢献を妨げないか?
  5. ライセンスの条文は、もっと明快な言葉で表現できないか?

このような分類は明確に区別はされないが、識別は可能である。それで十分。このような条件に照らし合わせて懸案事項を検討すれば、私たち全員の労力を正しい対象に集中するのに役立つだろう。

このような条件に従って問題に取り組み、それぞれの問題のありかをはっきりと意識することで、私たち自身とコミュニティの双方にとっての問題に優先順位を決定することができ、また脅かされているものを正確に把握することができる。戦術的に不器用なライセンスや文章の稚拙な条文があっても生きてはいけるが、基本となる自由がなければ活動できない。議論や調査の過程では、大局的な問題や目標は見失われがちである。

コミュニティとその目標の重要性は1つのライセンス(それがいかに広く利用されていようとも)の重要性に優るということを肝に銘じてほしい。目標とその目標の達成に大きな役割を持つコミュニティに焦点を置くことで、これからも活動を続けられるような最高のGPLを実現することができるだろう。

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