LUGのボランティアがカトリーナの惨禍に見たもの

この一帯の他の町と同様、Austin Linux Groupのボランティアたちも、カトリーナによる被災者支援に参加している。避難者たちは先週水曜日からオースティンに到着し始め、その週末にはオースティン・コンベンション・センターに数千人が、オースティン全体では5,000人ほどが身を寄せた。

一方、カトリーナの被災者を支援しようというボランティアたちも、その直後から続々と詰めかけてきた。ただし、こうした大規模な半官僚的半ボランティア的活動には混乱が付きもので、これに対する不満が大きな障害になっている。ここコンベンション・センターでは、ボランティアは、何よりも忍耐と創意工夫が求められている。

支援に向けてLUGメンバーが最初に思いついたのは、Public Webstationsプロジェクトに基づいてWebステーションを作ることだった。これについてはすでに先週報告した。メンバーは寄贈するマシンの組み立てに着手し、寄付を募り始めた。

金曜日には、オースティンに本拠を置く大手ISP 3社に電話をかけ、ダイアルアップ・サービスの提供を呼びかけた。各社の対応はまちまちで、2社からは返事がなかったが、OnRamp Accessは3か月間有効のダイアルアップ・アカウントを10あまり提供してくれた。さらに、必要であればレイバー・デイを含む週末にも対応すると電話番号を教えてくれた。

Webステーションはトニー・バーガー・センターに設置する計画だったが、ここには避難者がいないことがわかった。そこで、赤十字社に尋ねようと公開されている電話番号に電話をかけたが通じなかった。手を尽くしてやっとわかったのは、多数の生存者たちがオースティン・コンベンション・センター(ACC)に収容されており、IT に明るくデータ入力のできるボランティアが必要であることだった。

ACCでの活動のとっかかりとして、LUGのメンバー数名がこのニーズに応じ活動を開始した。現場に入ってみると、すでに50台のコンピュータが設置され、非常に太い回線――T3――が引かれていた。我々の寄与は、少なくともこの時点では、ごく些細なものだった。しかし、我々にもできる貢献の方法がすぐに見つかった。

赤十字社にボランティアとして登録したのだ。オレンジのリストバンドを渡され、ホール奥の部屋で作業の割り当てを受けるよう指示された。所在確認用データベースに避難者が登録する手伝いをする作業があったので、これを選び、コンベンション・センターのフロアに入った。

片側の壁に沿って幅の狭い折りたたみ式のテーブルが並び、その上に35のモニターとキーボードとマウスがひしめきあっていた。狭いと言ったのは、モニターに奥行きがあるため、モニターの前にキーボードを置く十分な余裕がないからだ。モニターの前に座ればモニターが近すぎるし、それが嫌ならモニターの横に立つ他はない。その壁の反対側に当たる隣室にも15のステーションが同じように設置され、こちらはトリアージ・センターとして使われていた。

データベースへの登録の仕方、Yahooの電子メール・アカウントの取得法、避難者の所在データを公開して家族や友人に生存しオースティンにいることを知らせる方法、電子メールを送る方法を、高校生が実演して見せてくれた。また、他の避難所にある同種のデータベースに登録されている生存者を検索する方法についても、詰め込まれた。

すると、誰かが私の肩に手を触れ「済みませんが、祖母を捜したいのですが」と丁重に話しかける声がした。こうして時間が過ぎていったのだ。この最初の日、コンピュータの順番を待つ列が途切れることはなかった。支援が必要な人もそうでない人もいた。ボランティアは、人々の間を回って戸惑っている人を助けた。

子供たちはこのコンピュータを使ってゲームをしていたが、登録する人や家族を捜す人が来るとマシンを空けるように言われていた。若者や子供たちがこの理不尽な災厄からすぐに回復していく様は感動的ですらある。しかし、大人はそうではない。生存者がやってきてデータベースに登録する手助けをするたびに、私はその年齢を知って驚いた。地獄のような1週間にすっかり老けてしまったのだろう。実年齢よりもずっと高齢に見えた。しかし、その私も、避難者たちの体験談を聞いて一気に老化した思いだ。

28歳ぐらいだろうか、ある若者が彼と彼の妻が嵐とそれに続く洪水を生き延びた顛末を話してくれたのだ。2人は救助ヘリが作業可能な橋に何とか辿り着いたが、彼の妻はヘリに届く直前に救助ロープから抜け落ちてしまった。ヘリは再び彼女を引き上げると、戻ってくると言い残して去った。しかし、ヘリは戻ってはこなかった。妻とはぐれた若者は、妻の居場所を求めてニューオーリンズの病院を捜そうとしていたのだった。

全員避難しているから、まだニューオーリンズにいるとすればおそらく空港だろう。重傷者は空港で応急措置をしてから避難していると伝えたが、そのことは若者も知っていて、オースティンに来る途中空港に寄ったのだという。しかし、そこに妻がいるかどうかを確認することはできなかった。若者は妻の家族にはまだこのことを知らせていない。生死不明の状態で恐ろしい知らせを聞かせたくないからだという。私と若者は、八方手を尽くして捜しまわったが見つからなかった。次の日、若者を見かけたので尋ねると、彼女の生死についても居場所についても、まだ何の手がかりもないという。

LUGのメンバーでITに長けた人――オースティンの町のあらゆる分野からITに強い人たちが参集している。LUGだけでないのは、もちろんだ――も、それぞれに活動している。Dzuy Nguyenは、ボランティアの割り当て作業が忙しすぎ、混み合いすぎ、時間がかかりすぎるのを知って見切りをつけ、オースティン市ITコマンド・センターに行った。ITコマンド・センターでは、テキサス大学から来たボランティアたちが子供たちをポルノから守ろうとルーターやプロキシ・サーバーを設定していたので、手伝った。

翌日は、コンベンション・センターに戻り、避難者が登録したり親類を捜したりするのを午前2時まで手伝った。Nguyenは、現在も、ルーターやサーバーやネットワークの問題解決を支援するために待機している。私はALGメーリングリストでNguyenの話を読み、心打たれた。そこには、次のように書かれていたのである。

私自身、避難者でした。避難者への応対は全く気になりません。私自身、そうだったのですから――私は難民だったのです。このような状況の中では政治的公正は忘れた方がいい。為すべきことを為すことに集中すべきです。私にも悲惨な過去があります。早くから難民や受難の物語を多く聞かされたため、少しは強くなり、涙を堪えることができるようになったかもしれません。それでもコンベンション・センターのフロアを歩き避難している人たちの間を通ると、謙虚な気持ちになります。私も同じような境遇にいたことがあるからです。そして助ける立場に立てることを特別なことに思います。私は助けてくれる人々を羨ましく思ってきたのです。

不満

しかし、誰もがNguyenのように考えているわけではない。中には、不満が高じている人もいる。データベースはシームレスではないし、完璧に検索できるわけでもない。たとえば、避難者がセンターに到着して真っ先にすることは赤十字のデータベースに登録することであり、そのデータベースが外部からアクセスできるようになっていないことは明白だ。なのに、後でボランティアが登録の有無を尋ねると、話がかみ合わないことが間々あるのだ。「はい。ここに来たときに登録しました!」と彼らは言うが、リストには登録されていないのである。

Yahooが過負荷になり始めてもいる。何度か反応しなくなったため、ボランティアは代わりにHotmailを使い始めた。今重要なことは、登録されている被災者を捜す人たちに連絡手段を提供することだからだ。

月曜日には、集まった多数のボランティアに赤十字の対応が追いつかず、午後2時まで待たせることになった。LUGのメンバーも来ていたが、作業の割り当てを受けるのを諦めた。やはり、支援するには、忍耐と理解と創意工夫が必要なのである。

私個人について言えば、問題は、自分がこの仕事ができるほどタフではないということだと思われる。多くの生存者たちが語る恐怖の体験談に私は疲れ果てた。目が赤いのは空調のせいでアレルギーが出たためだと説明したが、信じる人はいなかった。

今朝になると、ボランティアの受付が消えていた。同じ建物だが、別の場所に移動していたのだ。私は受付をせず、リストバンドもなしに活動した。その後、ITコマンド・センターを捜したのだが、これも移動しており、移動先を知る人は誰もいないようだった。私は、子供たちのために25台のコンピュータが必要だと伝えたかったのだが。いつまでも子供を閉じ込めておくことなどできない。簡単なちょっとした楽しみがあればと思ったのだ。

満足

あの若者の顔を生涯忘れることはあるまい。その若者は祖母を捜していた。ボランティアが彼の祖母の名前を別の赤十字サイトで見つけると、すぐに電話をかけた。その顔に浮かんだのは、純粋な喜びと安堵そのものだった。そうした喜びは、彼一人だけのことではない。2日目には10人を超える人たちの喜びの顔を目にした。そして、それが私を、あの場にいた数百名のボランティアを駆り立てたのだ。

もちろん、喜びだけではない。私の目の前で奇跡が起きていたときでさえ、暗黒はあったのだ。人々は1週間もの間、地獄にいたのである。ニューオーリンズのコンベンション・センターで、屋根の上で、救助を求めて汚水を掻き分けながら、彼らは地獄にいたのだ。人間の悲惨は、他の地域に対する無関心によって作られる。その場から支援の姿勢を示すことが重要だ。たとえ、すぐに被災者のところに行くことはできないとしても。

被災者の多くは悲嘆に暮れ、我が身に起きた災厄に打ちひしがれているように思える。しかし、被災者には、ほぼ一様に、やがて良くなるという思いがあり、彼らの周りにいる人々は助けたいと心から望んでいるのだ。被災者は、もはや孤立していないことを知っている。

今日、コンベンション・センターを後にした。センターの2個所に人が集まっていた。一方には、FEMAのオフィスがあり、家や保険などについて支援している。もう一方は、ボランティアの理容師・美容師が待っていて、先着順で無償サービスを提供している。LUGだけではないのだ。ITだけでもないのだ。私は、オースティン社会の一員であることを誇りに思った。

原文