クリエイティヴ・コモンズに関する悲観的な見解
はじめに
クリエイティヴ・コモンズ (Creative Commons, CC)は 2001年、スタンフォード・ロースクールのローレンス・レッシグ (Lawrence Lessig)教授を中心とした様々な分野の専門家たちによって立ち上げられたプ ロジェクトだ。ソフトウェアの世界におけるオープンソース/フリーソフトウェ アの成功に刺激され、ソフトウェア(プログラム)以外の著作物全般にもオープ ンソースと同様の「自由」を取り戻そうという試みと位置づけられる。日本で もクリエイティヴ・コモンズ・ ジャパンが設立され、現在は主に日本法との平仄という見地からクリエイ ティヴ・コモンズのライセンス的な吟味が続けられているようだ。なお、クリエイティヴ・コモンズそのものに関する良い手引としては、荒川靖弘さんの「クリエイティブ・コモンズ」についてがよくまとまっている。今までソフトウェアにおけるオープンソースには関心があったが、それ以外の著作物におけるクリエイティヴ・コモンズには関心がなかったという向きにはぜひ一読をお薦めしたい。
筆者も、GNU フリー文書利用許諾契約書(GNU FDL)や、後にクリエイティヴ・ コモンズに合流したオープンコンテント利用許諾契約書(OPL)のレビューや翻 訳を行ったこともあって、オープンソース的な発想をソフトウェア以外の著作 物に敷衍する試みには常に関心を持ち続けてきた。生来の怠惰でクリエイティ ヴ・コモンズというプロジェクト自体には余りコミットして来なかったが、そ の動向にはある程度注目してきたつもりである。また、最近では筆者も(幸か不幸か両方の)メンバであるDebian ProjectとFree Software Foundationの間でソフトウェアと文書のライセンスを巡る大論争が起こっており(この件に関しては後日まとめたい)、文書のようなソフトウェア以外の著作物に関する議論に改めて目を向けたということもあった。
そして2年が経過した。物事にとりとめがつくには多大な時間がかかるとい うことを考慮に入れても(フリーソフトウェアは20年かかった)、率直に言って、 筆者にはクリエイティヴ・コモンズが期待されていたほど成功しているとは思 えない。確かに知名度は上がったし、メディアに登場する頻度も高くなった。 クリエイティヴ・コモンズには昨今のやみくもな著作権保護強化に反対するキャ ンペーンという側面もあるので、パブリシティを得たのは成功の一つと言える だろう。また、クリエイティヴ・コモンズのウェブサイトには毎週様々な「成 功例」が挙げられており、盛況であるかのようにも見える。
しかし、いくつかの例外を除けば、見たところその内実はコラージュ、寄 せ集めの類が多いようで、著作物としてのバリエーションや独創性といった点 で不満が残る。また、名のある(商業価値のある、と言ってもよいだろう)アー ティストで自作にクリエイティヴ・コモンズを適用したという人はほとんど見 かけない。また、MITの授業教材の公開 などが与えたインパクトを決して過小評価するわけではないが、いわゆるメディ ア産業で自社コンテンツをクリエイティヴ・コモンズの下で公開するという動 きも大きな潮流にはなっていないように思う。
また、Googleで検索してみると、内外を問わず、世のクリエイティヴ・コ モンズが適用された著作物の大半は、いわゆるblogの類のようだ。 blogが悪いというわけではないが、blogだけというのも少々寂しい状況ではな かろうか。しかも、(特にMovableTypeを利用した)bloggerたちがきちんとクリ エイティヴ・コモンズを把握して使っているわけではないことは、たとえば日 本のJapan Blog Association (JBA)を巡る騒動ではからずも露呈してしまった(この件に関してはJBAの問題点に関する報告が詳しい)。
このようなクリエイティヴ・コモンズの現況を、IBMを筆頭とした営利企業 も次々と自社製品をオープンソース化しつつある昨今のオープンソースを巡る 状況と比較すると、歴史が浅いということを差し引いても今ひとつ力強い推進 力に欠けているように思われてならない。
加えて筆者が問題だと思うのは、クリエイティヴ・コモンズを積極的 に生かしたコラボレーションがほとんど起こっていないように見えることであ る。本来クリエイティヴ・コモンズは、他人との共有を前提に公開されたコン テンツを増やすことで、自由かつ簡単に利用できる著作物のプールを作り出し、 それによって新たな独創がさらに生み出されるという知の拡大再生産をねらっ ていたはずである。しかし現在は、単にクリエイティヴ・コモンズのライセン スが適用された著作物がごろごろ転がっているというだけで、作者間の相互の 関わりが盛んに行われているようには見えないし、逆にクリエイティヴ・コモ ンズであろうがなかろうが活発なコラボレーションが行われている場はいくつ も存在する。さらに、日々活発な活動が続けられているオープンソースによる バザール開発の現場と比較すれば、その差はいよいよ明白になると思う。
クリエイティヴ・コモンズは生まれてから日が浅く、魅力的なコンテンツ はまだ少ない。それは仕方がないことだ。ゆえに、それがクリエイティヴ・コ モンズが新たな創造を生み出すという点でそれほどめざましい成果を挙げてい ない唯一の理由であれば、時間が解決してくれることであって、大した問題に はならないという楽観的な見方もできる。しかし、もしクリエイティヴ・コモンズが本質的に新たな 著作物を生み出す推進力とはならず、また知的財産の公開を促さないため過去 の資産を活用できないのであれば、おそらく今後もクリエイティヴ・コモンズ は一般に普及することはなく、少数の「目覚めた人たち」の愛玩物に留まるだ ろう。そういった悲観的な見方も可能だ。
筆者は、実は後者に近い極めて悲観的な見通しを持っている。ソフトウェア(プ ログラム)といわゆる著作物一般との間に本質的な違いがあり、それがクリエ イティヴ・コモンズやそれに類似したオープンソース的な発想の著作物全体へ の拡大を鈍らせる原因になっているのではないかというのが筆者の考えだ。実際、クリエイティヴ・コモンズより前にもソフトウェア以外の著作物にオープンソース的な概念を適用しようとした試みはいくつかあったが、どれもそれほど目覚しい成功を納めていない。裏を返せば、クリエイティヴ・コモンズは、安易にソフトウェアの世界におけるオープンソースとの類推に頼ってしまったのではなかろうか。
念のため書いておくと、筆者はコンセプトとしての「コモンズ」の重要性 を否定しているわけではない。むしろ逆で、筆者はレッシグの積極的な支持者 である。しかし、「コモンズ」を実現するための一実装としてのクリエイティヴ・コモンズの ロジックが今ひとつ理解できないのだ。端的に言えば、筆者自身が、自分の書 いたものをクリエイティヴ・コモンズにしようという気が起こらないというこ とである。よって、ぜひ様々な方からの意見・反論を頂戴したい。また、本稿 では「クリエイティヴ・コモンズ」を、Creative Commons Public License (CCPL)のライセンス・オプションの総称として使う。どの属性が指定されていても成立する話にしたつもりである。
著作権者へのインセンティヴの不足
まず検討したいのは、ソフトウェア以外の著作物の場合、そもそも作者、 あるいは著作権者に対し、彼らが権利を保有する作品をクリエイティヴ・コモ ンズで公開させるだけのインセンティヴは存在するのかという問題である。と りあえず、クリエイティヴ・コモンズが世のため人のためになる善行だからな にが何でもやるんだ、という立派な方々は除外して考えたい。世界がそういう 方々ばかりになれば喜ばしいと思うが、なかなかそういうわけにもいかないだ ろう。ここで問題としたいのは、筆者を含めた、自分の満足度をできるかぎり 最大にしたいと考えるふつうの人である。いわゆる「合理的経済人」と思って いただいてかまわない。
たとえば筆者自身が自分の書いたものをクリエイティヴ・コモンズにする として、その行為自体に(たとえば何らかの抗議行動という)意味を見いだせる 場合を除いて、原作者としての筆者になんらかのメリットが期待できるのだろ うか。オープンソース・ソフトウェアの場合は、有形無形のメリットが公開し た側にもあると筆者は考えているのだが(この点に関しては拙稿「オープン ソースの定義」の意義を参照されたい)、クリエイティヴ・コモンズが対象 とする著作物全般に話を広げると、公開する側へのメリットはとたんに希薄と なるように思われるのである。
この問題に関して、クリエイティヴ・コモンズのウェブサイトにあるFAQで も言及して いる。様々な例が挙げられているが、ここで抜け落ちていることがあると思う。 それは、現時点ですでに多数の知的財産を保有する営利企業との関係 だ。
言うまでもなく、創造は過去の模倣から始まる。しかし、過去の資産の大 半は営利企業が保有しており、彼らは自社の知的財産をがっちりと著作権で保 護している。そもそも、彼らがインターネットにおける無断複製の横行という 危機に晒されて、著作権の強化を求め始めたのがクリエイティヴ・コモンズ登 場の契機の一つだった。そのせいか、クリエイティヴ・コモンズは、フリーソフトウェア 論者の目から見ても商業サイドを相当敵視しているように思われる。しかし、 彼らは「敵」なのだろうか。
オープンソースの歴史においてターニングポイントとなったのは1997年、 Netscape社によるMozillaソースコードの公開だった。Netscape社自体が苦境 から脱することはついに無かった(と過去形で語ることには問題があるかもし れない)が、結局オープンソース/フリーソフトウェアが爆発的に成功した要因 の一つは、「ソフトウェア自体をプロプライエタリにしなくても、ビジネスと して成り立つ余地はある」ということをはっきりと示した点にある。結局ソフ トウェアは結局「使われるもの」であって、原理的に完成するということはな く、常に改良が加えられていくものだ。そのため、保守や改良に高度な技術が 継続的に必要となるので、保守や付随するサービスで収益を上げることができ る、というのがオープンソースのロジックである。Microsoftですら自社製品 (特にWindowsコア)をオープンソースの下で公開すればメリットを享受できる と筆者は考えている(直接 Microsoft の日本法人の方にそう言ったこともある) くらいなのだが、このように一般的な企業の取り込みに成功したことがオープンソース /フリーソフトウェアがスムーズに市民権を得た大きな要因の一つだと筆者は 考えている
しかし、クリエイティヴ・コモンズやその他の「オープンソース的著作物」 の試みでは、収益悪化など危機に直面したメディア産業に、彼らが主張するよ うな「著作権の強化」以外に事態を打開するオルタナティヴを提示できていな いように思われる。ソフトウェアにおけるオープンソースならば、保守コスト の軽減や他者による改良のフィードバックなど様々なメリットの享受が予想できるが、筆者には 著作物一般で同じような議論が成立するとは思えない。ゆえに、従来の 企業に、方針を転換させるインセンティヴがほとんど無い。いわゆるレッシグ の「コモンズ」の議論で言えば、だからこそ国家による規制が必要となるとい うことになるのだろうが、現実的にはロビイングによる影響力という点でも企業に はかなわない以上、実現困難なことを望んでいても仕方がないと筆者は思う。 オープンソース/フリーソフトウェア(特にコピーレフト)が、その 普及にあたって従来からある著作権以上の法規制を一切必要とせず、しかも著 作権保護が強まれば強まるほどその実効性を奪っていくような仕掛けを持って いたことを想起してほしい。
簡単に言ってしまえばこうだ。マイクロソフトがWindowsをオープンソース にするメリットはある。しかし、ディズニーがミッキーマウスを自主的にクリ エイティヴ・コモンズにする蓋然性はないと、筆者は思うのである。営利企業をも巻き 込めるようなロジックを考案しない限り、クリエイティヴ・コモンズは限定さ れたポピュラリティしか享受できないのではないだろうか。
不発のコラボレーション
話は変わって、コラボレーションの問題だ。これに関しては、おそらくコ ラボレーションの対象となる著作物の性質に強く依存する話だと思うし、もし かすると、筆者の知らないところでは、盛んに創造活動が行われているのかも しれない。しかし、少なくとも筆者の知る限り、クリエイティヴ・コモンズであるがゆえ に活発な創造活動が刺激されているという例は、見かけたことがない。
ここでポイントと思われるのは二点だ。まず、ソフトウェアは他の著作物と比 べて可分性と再利用可能性が高いということ、そして、ソフトウェアが有用性 でその価値が判断されるのに対し、著作物一般では必ずしもそうではないこと。
可分性と再利用可能性というのは以下のような話だ。たとえば、ソフトウェ アの世界ではAさんの書いたコードを自分のコードに取り込み、あるいはBさん が作ったライブラリを自分のプログラムから利用して使うということはよくあ る。しかし、引用という範囲を越えて、夏目漱石の文章をそのまま(あるいは 改変して)自分の作品の一部として取り込むというのは、ある種の前衛的な文 学作品を除けば考えにくい事態だ。また、「我が輩は猫である」の第二章がい かに優れているからといって、自分の本の第三章にそれを差し込むということ もほとんどないだろう。すなわち、いわゆる著作物は「思想又は感情を創作的 に表現したもの」(日本著作権法第二条)であるがゆえに、原作者との結合がソ フトウェアよりも強く、また部分が全体とより密接な関係を持っている(言い 換えれば、「機能」としてうまく一部を分離できないことが多い)ため、他の 著作物で再利用することが難しいのではないかと考えられるのである。オープ ンソースとはある意味ソースコードの再利用性を高める仕組みでもあるわけで、 それがゆえに自分のソフトウェアを、利用したいコードと矛盾しないオープン ソースのライセンスの下で公開しようとする動機が生まれる。しかし、クリエ イティヴ・コモンズが対象とする著作物一般では、結局引用程度でかたがついてし まうケースが多いような気がするのである。
有用性に関しては以下のような議論が成り立つ。先に述べたように、ソフトウェア には原理的に「完成」しない。言い換えれば、ソフトウェアをオープンソース のライセンスの下で公開することで、さらなる改良が見込める。しかし、ソフ トウェア以外の著作物は基本的に作者の手を離れた時点で「完成」してしまう。 日本でも井伏鱒二や稲垣足穂のような自作の改訂に熱心な作家がいたが、多く の場合自分がいったん書いたものに(誤記や typo の修正という以上に)手を入 れるということはあまりないのではないか。すなわち、一般的な著作物でも 感想などの「フィードバック」は重要だが、それはあくまでも次作以降に関し てであって、その著作物自体を改良していくということにそれほど重点がない のではないかと思うのである。それは、結局のところソフトウェアはあくまで「使うもの」であるということに起因する違いだと思われる。こう考えると、そもそもソフトウェア(プログラム)を著作物に分類していること自体の是非を問わなければならないが、それはまた別の機会の議論としたい。
まとめ
クリエイティヴ・コモンズの目標は、ウェブサイトでも述べられているよ うに「生のマテリアルを増やすだけではなく、それらへのアクセスや再利用を 容易にする」ということだ。しかし、本稿で述べてきたように、ソフトウェア とそのほかの著作物の定性的な性質の違いのために、そもそもクリエイティヴ・ コモンズが生のマテリアルを増加させるということはないのではないかと筆者 は思う。言い換えれば、(レッシグの熱心なフォロワーではない)コンテンツ作 者が自分の作品をクリエイティヴ・コモンズにする動機付けが非常に弱いと思 うのである。また、クリエイティヴ・コモンズを巡る一連の議論も、テクニカ ルな法律論が多く、そもそもなぜクリエイティヴ・コモンズにするのか、とい う点に関して十分な議論がなされてきたとは思えない。
ではどうしたらよいのか、ということについて筆者なりに少し考えてみた のだが、あまりうまい考えは浮かばなかった。歴史的にうまくいったのは、魅 力的なコンテンツ(GNU ソフトウェア、そして Linux カーネル)をいわば餌と して、著作権とコピーレフトという梃子を活用した RMS の戦略だが、それに Share Alike 属性が主張されていたからといって、クリエイティヴ・コモンズ にしてまでどうしても自分(ことに営利企業)が自分の作品に取り込みたいと思 うようなコンテンツはあり得るのだろうか。
そんなわけで、筆者としては、このような暗い見通しを持っているのだが、 あと数年で、このような見通しを吹き飛ばすような普及をクリエイティヴ・コ モンズが遂げてくれればと願うばかりである。