利用目的を制限するオープンソース?

ルールを守るのが日本的
ちょっと前に,日本では みんなの考えたオープンソース とかいう議論が ありました.オープンソースの定義に合致しないのにオープソースを 騙るとは何事だ,なんて風潮があったのを思い出したわけです.例えば, HORBライセンスも槍玉にあがっていたのですが,あれって,いわば 「軍事利用禁止」版修正BSDとでもいうような内容なのですよね.

オープンソースを定義した立場のOSIの創設者の一人は「共感を覚える」と 言っているようですが,日本では,定義に即しているかどうかという審判的 議論に終始しがちです.それも,異端の盲信者ではなく,代表的な論客達が,です.

ということだそうだ。これは OTPの 「軍事利用禁止」版GPLを掲げるオープンソース・プロジェクトGPUに 関しての記述である。

ここでの盲信者と論客達が誰を指しているのか分からないが、少なくとも 私がよく知っている連中はそんなレベルでの話はしないので、どこかの 違う人達の話だと思う。

まあ、OSDだけを信奉する風潮もあることは何となく感じるが、マーケティング上 での話を抜けば、ごく少数な気がしてならない。逆にマーケティングのためには ガチッと定まっているほうが都合がよいわけだが、それでも定義に合致して いるかどうかが重要ということではなくて、マーケティングのために都合が 良いか悪いかというだけの問題である。

Russ Nelsonは確かに「共感を覚える」と言っているが、OSIはこのような ライセンスをオープンソースと呼ぶことはないだろう。利用目的の制限は 彼らにとって最も重要な自由を奪ってしまうし、多くの場合条件が愛昧に なってしまう。軍事利用の禁止といった条項は、私も多くの人が 「共感を覚える」とは思うが、ライセンスとしては不便すぎて全く使い物に ならない。

というか、そもそも別にオープンソースという称号を付けることでその ソフトウェアに優マークを付けているというわけでもないのだから、 幾らかの不便を被っても利用制限をかけたいならそうすればいい。 それも自由である。また、どうしてもオープンソースの定義と非軍事利用等の 制限の両立に拘りたいなら、 GPLの序文を見ればよい。序文でぐだぐだとFSFの理念が書かれているが、 GPLの適用者やソフトウェアの利用者は、その多くがGPLの理念にも敬意を 払っているが、それに縛られているわけではない。このあたりが現実的な 解なんだろうなと素直に思う。

で、オープンソースという語に対してだが、少なくとも私のまわりの人間 とOpen Source Group Japanでは、「オープンソースの定義」を支持しているが、 これは今のOSDが我々には都合がいい定義だと思ってるからであり、 将来ずっとそうとは限らない。また、 Open Source Group Japanでは、オープンソース/Open Sourceは誰もが 自由に使うことを認めるという立場をとっている。

これはOSIとは若干異なるスタンスだが、もしOSIが現状のOSDを私が支持 している考え方とズレが大きくなってくれば、私はオープンソースを捨てる だろう。八田氏がこの世界では有名だと思うが、彼はCopyleftの支持者であり、 オープンソースの定義は彼の考え方に都合がよいので支持していると私は 考えているが、彼もOSDとズレが生じてくればオープンソースを見限って 新しい何かを探すか作りだすだろう。それだけのことである。