OSSコミュニティの「日本病」について

というタイトルのコメントスパムが、個人的に運営しているほうの日記に書き込まれていた。そもそも他人が書いた文章をコピーして、あちこちにスパムコメントとして投稿しているという手合いのようで、関係ないところで関係ない話をされても迷惑なのだが、ついでだからコメントしておこう。今後はこちらにトラックバックしてほしい。言い換えると、どんなに良い意見であっても今後はあっさり消します。

さて、件の話の根本的な問題点は、「コミュニティ」とか「OSSコミュニティ」といった言葉の定義をはっきりさせないまま適当に使い回していることである。私は、「コミュニティ」という言葉が馴れ合いじみていて嫌いなので、個人的にはほとんど使わないのだが、それでも「OSSに何らかの意味で関わっている人々全体」という程度の意味で「OSSコミュニティ」と言ってしまうことはたまにある。そうとしか言いようがないからだが、この意味なら私も「OSSコミュニティ」に属していると言えるだろう。最初はこのような広い意味での「OSSコミュニティ」(の部分集合としての「日本のOSSコミュニティ」)についての話だと思っていたのだが、後のほうでは明らかにどこか特定の団体、狭い意味での「コミュニティ」を示唆するふしもあって、話が分からなくなる。複数の団体が存在する世界において、問題を抱えた団体を含まない世界は稀だ。だからといって、個々の団体のどれかが問題を孕んでいるので世界全体も「〜病」だ、というようなことは一義的には言えない。この文章の書き手は、キーとなる言葉の定義を曖昧にすることで、知ってか知らずかそのような特殊から一般への論理の飛躍を試みているように思う。それはフェアな議論の進め方とは言えない。

本家原理主義。日本のユーザーコミュニティはあくまで亜流

ナントカ原理主義というと字面だけでネガティヴな印象を持たれがちな昨今だが、よくよく考えてみると、「本家原理主義」という言葉の意味するところはこれまた曖昧である。どこか遠くで不可侵で下手すると不条理な本家の方針に、自分の意見を殺して盲従するということだろうか。世の中広いのでそういうケッタイな人たちもいるのかもしれないが、少なくともOSSという文脈では、私は見たことがない。

「できるだけ本家に参加して作業する」というポリシーのことならば、それは「原理」かも知れないが、「主義」と言うのはどうかと思う。あれは、手元でちまちまやっていると本家の勝手な変更にいちいち追従しなければならなくて面倒だから、いっそのこと本家に取り込ませてあっちで作業してしまえというだけの話であって、単なる手間暇、コストの問題だ。すなわち、本家の方針に振り回されるくらいなら、自分が本家の方針に影響を与えられる立場になったほうがいいというだけのことである。比較的低コストでそれが可能なのが、オープンソースによるバザール型開発の良いところだ。

しかも、最近ではCVSやsvnのなどのレポジトリも本家でちゃんと用意してくれていることが多い。多くの場合手を上げただけで使わせてくれるのだから、そういった開発インフラを利用しない手はない。逆に、それだけのコストにメリットが見合わないと思えば、別に手元でちまちまやっていても構わないわけだ。もちろん、とりあえずやるだけやって個人的に公開し、後の本家へのマージその他は誰かやりたい人がやってね、でも全く問題ない(というより、そのほうが周りにとっては好ましい)。あるいは、本家が「本家」としての体を成さず、全く機能していないのであれば、自分たちでプロジェクトを引き継いで新たに「本家」になってしまえば良い。いずれにせよ、その時点での開発の中心を重視して開発を進めるのは、原理主義も何も、当然のことであろう。

ところで、以上では無反省に「本家」という言葉を使い、しかもそれが常に外国にあるかのような表現を続けてしまった。しかし、日本に開発の中心があるOSSは日本が「本家」である。そういったプロジェクトに、外国から参加する人は「日本病」なのだろうか? そんなことはあるまい。

「日本のユーザーコミュニティはあくまで亜流」という話について、日本に限らずユーザーコミュニティが副次的な立場なのは元来当たり前である。純粋な「ユーザーコミュニティ」がある意味「主流」になりうるのは、完全にお客さんとして、お金を出して誰かに何かをしてもらうときだけであろう。互助会的な役割としてユーザコミュニティは重要だとは思うが、主流か亜流かと言えば亜流としか言いようがない。その代わり、亜流に留まることを強制するものは誰もいない。

亜流故に妙に独自主義

上とも関連するが、「独自主義」、私は「フォーク」と呼んでいるが、これは選択肢の一つとして常に持ち続けていて良いし、むしろ持ち続けているべきである。ただ、独自主義をやるにはそれなりにコストがかかっていろいろ面倒だから、どうしても必要なときだけの「最後の手段」にすべきではないか、というだけの話だ。このあたりについては、以前講演で述べたことがあるので、そちらを読んでいただきたい。いずれにせよ、ちゃんとコストを引き受けるのであれば、独自主義は何の問題もない。「日本はオープンソースのガラパゴス」でも「日本はオープンソースの名古屋」でも別に良いではないか。ただ、フォークするからには本家以上にエレガントな解を追求してほしいとは思うけれども。

コミュニティが分断されている

少なくとも今までの歴史を見れば、この分野での分断と対立は発展の母であった。

古くはGNU Emacs対XEmacsやGNU/Linux対*BSD、比較的最近ではKDE対GNOME、そもそもフリーソフトウェア対オープンソースもそうだが、これらのように微妙に肌合いの異なるコミュニティが並存し、切磋琢磨したりパクリ倒したりしてどうにかこうにかやってきたのである。開発フォースの分散というマイナス面を差し引いても、コミュニティが分断されていること自体は別にどうということもないし、良いとも悪いとも一概には言えないと思う。どのみちコミュニティ間でかぶっている部分も多い。

問題なのは、ライセンシングのレベルでソースコードの「インターオペラビリティ」を保つことであろう。しかし、個人的には、まあ保たなくてもそれは開発者の勝手ではないかと思う。あえてライセンスを矛盾させるという戦略は、別に有っても構わないし、そのほうが自分に得だと思えばそうすればいいだけのことだ。ただし結果も自分に帰属する。

開発コミュニティとユーザーコミュニティが悪い意味で分断されている。コミュニティとはあまり関係なく、個人が本家にフィードバックするだけ。悪くすればローカライズに特化した組織になるか、ユーザー間の交流会止まり。集団化すりゃいい、という問題でもないがコミュニティでしかできないことを日本のOSSコミュニティが提供できているか、というとそういうわけでもない。

「コミュニティでしかできないこと」というのは具体的にどのようなことなのだろう。何か必要であれば、それを供給するコミュニティは自ずと生まれるものだと思うのだが。逆に、そういったコミュニティが無いということは、それは必要とされていないということではなかろうか。ちなみに、ローカライズに特化した組織というのは目標もはっきりしていて極めて重要だし、ユーザ間の交流会も大変結構なことだと思う。裏を返せば、そういったものが求められていて、そういったものの運営に必要だからこそ、それ用のコミュニティが作られているのではないか。

日本なんとか会(法人組織)の排他性。中間法人格などを取得していても、 組織の運営実態がイマイチ把握できない。ディスクロジャーの欠如、法人協賛会員への過度の財政的依存、役員選定基準の不明確さなど一見して誰のための何の組織なのか理解不能。

そもそも「一見して誰のための何の組織か理解不能」な組織になぜ人が加入するのかが分からないのだが、書いてる当人にも理解不能だというのだから、そういう組織とかかわったことがない私にはいよいよ理解不能である。いずれにせよ、これは個々の組織の問題であって、OSSコミュニティがどうこうと話ではあるまい。

しかも、コミュニティとの繋がりが希薄なので、情報を求めにきたビジターは肩透かしを食らう。一方で恒常的な財政問題を抱えている

「コミュニティとの繋がりが希薄」で、しかも「恒常的な財政問題を抱えている」のに、存続できるほうがおかしいと私は思うし、それはそれで興味深い現象だが、これも広い意味での「OSSコミュニティ」とは直接関係ないだろう。狭い意味での「コミュニティ」についてだというならば、そこに直接言うべきではないか。

開発者やユーザーは、似たようなコミュニティの間を渡り歩くか、現実的な成果を上げるにはコミュニティとは無関係に活動せざるを得ない

「現実的な成果」を挙げているかどうかはともかく、私はこのコメントスパムの筆者が言うような意味での「コミュニティ」に属したことがないし、それで不自由を感じたこともない。ゆえに、少なくともコミュニティとは無関係に活動することは可能だし、別に奇妙なことでもないように思う。

日本のOSSコミュニティにおけるアクターはコミュニティではなく、キーパーソン的な個人

その通りだと思うが、これは別に日本に限らないし、「病」だとも思わない。むしろ常態である。むしろ、コミュニティに存在感がある事態というほうが想像しにくい。

ちなみに、私は今後、個人ではなく企業が今まで以上に重要なアクターになっていくだろうと考えている。そういう話をちょっと前にZDNetの連載で書いたのだが、何の反響もなかった(笑)。まあ当たり前のことだしね。

以上、「一読しただけでは何か鋭い分析があるように思えるが、実は無内容」というのが全体を通した評価だ。