Linuxと共に10年

Linuxとフリー/オープンソース・ソフトウェアを有意義に使い始めてから、今年で2度目の10年に突入した。Linuxに初めて触れたのは1995年頃だったが、実際に使い始めたのは1996年6月、最初の個人Webサイトを作成したときだ。今では仕事でもプライベートでも、Linuxデスクトップで個人のコンピューティング・ニーズをすべて満たしている。ここに、私という男とLinuxが共に成長してきた日々を振り返ってみよう。

90年代の中頃は、私にとって厳しい、少なくとも経済的には大変な時期だった。抵当権が実行されて自宅を失い、South Austinのトレーラーパークでシングルワイド・トレーラーに住むことになったのである。自宅と共に自分のBBS “The Red Wheelbarrow”も失った。BBSを維持するために必要な余分の電話回線を引く金がなかったからだ。プログラマではなくライターとして身を立てようとしていた私にとってこのBBSは表現の場だっただけに、これは大きな痛手だった。

また、当時「Papa Joe’s Dweebspeak Primer」というニュースレターも発行していた。定期購読で販売するほか、地元Austinの書店やPC販売店でも店頭販売していた。みんなが私を笑ったわけではないが、ボディの両サイドに”Papa Joe’s Dweebspeak Primer”と大書きした愛用の赤い小型ピックアップ・トラックで街を走り、最新版を配達し、先月号の売れ残りを回収して回った。しかし、知人のほとんどは、友人でさえ、この馬鹿げた奮闘にほほえみを向けるのがせいぜいだった。彼らを責めるつもりはない。

ようやく職歴に明かりが差したのは1996年、州政府との契約でCOBOLの仕事にありついたときだ。それまでは、あちこちの州機関で一時雇いの事務員兼タイピストとして働き、最低賃金よりちょっとましな収入を得ていた。

あるとき、近くの店でこんな話を小耳にはさんだ。Austinの小さなISPが、ISDNインターネットアクセスを低料金で提供しているという。ギークな性分に逆らわず、私は増えた給与の最初の使い道をISDN回線とこのISPとの契約に選んだ。

閉鎖したBBSの埋め合わせにWebサイトを作ることは既に決めていた。ApacheとLinuxというすごいものがある、という情報も耳にしていた。Caldera OpenLinuxを買って、作業に取りかかった。契約したISPは、自宅にT1回線を引いた1人の男が運営していた。彼の助けを借りて、中古のルータを入手し、設定することができた。さらに、Linuxマシンでルーティングを設定する作業も彼が手伝ってくれた。1996年6月8日、サイトのドメイン名としてpjprimer.comを登録した。

Webサイトをホストする作業は退屈だったが、5年前にOpusを実行するFidoNet BBSを設定したときほどの苦労はなかった。サイトが立ち上がり、動き始めると、新しいページをときどき追加したり、ニュースレターの最新号をリリースする以外には、たいした作業はなかった。

その頃、AustinのLinuxコミュニティで活発に活動していた初期のメンバ、Jep Hill、Stu Greenといった人々との付き合いが始まっていた。そしてわかったのは、フリーソフトウェアへ移行したOS/2ファンは自分だけではないということだ。

LUGがこういった初期のミーティングから成長してゆっくり歩み続け、ある場所で収まりきらない人数に増え、次の場所に移動していくまで、長くはかからなかった。その歩みはいまでも続いているが、それにしても驚かされるのは、いまだにミーティングが毎週開かれていることだ。エゴの衝突や縄張り争い、Austinの北から南までの距離、そういった要素が今日のAustinに複数のLUGが存在することに寄与したのが事実だとしても。

最初の1、2年はLinuxについてあまり学ばなかったことは認めなければならない。自分のWebサイトを運営し、うまくいっていた。システム管理はあまり必要なかった。2年後、サイトのセキュリティ強化を怠っていたことに気が付いた。知らないうちにマシンのrootが乗っ取られ、IRCネットワークのホストに使われていたのである。

1997年、LinuxとOS/2 Warpのデュアルブートを始めたが、それはLinuxの学習を始めたときでもあった。当時はまだほとんどアングラな組織だったLUGの仲間との付き合いや、インターネットから盛んに聞こえるLinuxにまつわるウワサから、次の大物になろうとしているものを偶然見つけたことがわかった。当然、私はLinuxとそれを中心とするコミュニティについて書くようになった。1999年7月4日、私はWindowsからの独立を宣言し、それ以来Linuxデスクトップを何不自由なく利用している。

1998年になると、Linuxはもはや秘密ではなかった。IT出版社IDGは、Linux専門の大規模Webサイトの開設を決定し、InfoWorldの元バックページ・コラムニストNicholas Petreleyを責任者に選んだ。秋にPetreleyから電子メールを受け取って、私はのけぞった。あなたのWebサイトを見た、ついては執筆を依頼したいが興味はあるか、というのである。私の一部は歓声を上げ、「どうだ、笑ってるヤツはまだいるか!?」と叫びたいところだった。だが、それが現実のことなのか信じるのは難しかった。

今言えるのは、Linuxが私のシャツの襟首をつかんで新しいレベルまで引っ張り上げてくれたということだ。これは、リーダーシップ、悪名、知名度という点で真実である。”The Dweebspeak Primer”を知る人は多くないが、多くのLinuxギークはジョー・バーという名を、あるいはLUGで呼ばれるところの「ミスター・あのジョー・バー」を耳にしたことがある。

10年前と現在で何が変わっただろうか。Red Hatが儲けている、というのが1つ。Linuxはサーバ・ハードウェアの販売に貢献し、Apache Webサイトをホスティングしているだけでなく、ハンドヘルド・デバイス、家庭用ビデオ・レコーダ、携帯電話にも搭載されている。優れたセキュリティは、NSAやCIAのような情報機関で採用される理由になっている。

現在のLinuxコミュニティは、単なる趣味の同好会の域をとっくに脱した。スーツ族とCEO、ベンキャー投資家と学校管理者が私たちの間にいるし、言うまでもないことだが、LinuxサーバとWindowsサーバの両方を保守できるシステム管理者が1つの世代と呼べる勢力になっている。独占企業がデスクトップ市場でかろうじて首の皮一枚を残して踏ん張っているが、LinuxライブCDの増殖を食い止めることはできていない。ライブCDは、Linuxをインストールしようなどと夢にも思わなかった人々にも、Linux採用の障壁を取り除き、導入へと踏み切らせている。最近のKnoppixを見てもらいたい。実に素晴らしいものだ。

X serverは、私がLinuxを使い始めた頃はよくクラッシュして、コマンドラインでしかできないことを学ぶ機会を提供したものだが、今はそう簡単にクラッシュしない。現在、魔法のようなXglとCompizを使えば、世界で最高にクールなデスクトップはWindowsではなくLinuxで動く。こんな『醜いアヒルの子』の物語があちこちで見られる。

クラッシュといえば、Linux世界がドットコム・クラッシュを生き延びたことを不思議に思う人は多い。生き延びただけでなく成長も続けている事実は、Linuxとフリーソフトウェアが気まぐれや一過性の流行ではないことの証拠である。また、SCOからの闇討ち、トーバルズのスケーラビリティ、そしてMicrosoftが展開した、インチキなベンチマークから「ビジネス界はLinuxに興味を持たない」という流言にまで及ぶネガティブ・キャンペーンにも生き延びた。攻撃が失敗に終わるたびに、私たちは強くなり、勢いを得た。

Linuxで使える定番アプリケーションの多くはワールドクラスであり、クローズソースのプロプライエタリな同等製品に完全に匹敵するか、それを凌駕する。しかし、まだ埋め切れないギャップやふさぐべき穴もある。デバイス・ドライバは玉石混交だ。オープンソース・ドライバの量と質は改善されつつあるので、Windows環境でプリンタやデジカメ、NICに必要なプロプライエタリ・ドライバを入手するために数時間もCDをとっかえひっかえしなければならない一方で、最新のLinuxディストリビューションではハードウェアが検出され、適切なドライバがいつの間にかインストールされるのが普通である。

これからの10年、Linuxはもはや地平線に見える光でもクールな代用プラットフォームでもなく、コスト削減だけを目的に選ばれるものでもない。世界各地の企業がセキュリティや信頼性、そしてコスト削減と独占の鎖に縛られる状態からの解放を理由に選択するようになっている。この先もこの流れはおおむね同じだろう。世界的独占が地平線に居座り続けるとしても、Linuxはサーバとデスクトップで優勢なプラットフォームになる運命にある。

ミスター・あのジョー・バー
州機関でのプログラミング仕事が終わった後、Austinのソフトウェア・ショップと契約した。Informix 4GLで書かれ、SCOで稼働するPOSシステムの保守を手がけ、やがてCを独習し、Cで書かれたPOSシステムの保守を始めた。この仕事は、昼の労働から完全に足を洗って執筆だけで生計を立てられるようになった2001年まで続けた。

同じ職場で働いていた婚約者のSusanが、こんなエピソードを話してくれた。マネージャーは以前雇っていた者の痕跡を残す人だった。私の退社から約6か月後、テキサス大学のコンピュータ・サイエンス学科を出てまもない2人の卒業生が、Linuxへの取り組みについて取材に訪れた。彼らは、窓枠に残されていた私のネームプレートを目にとめて言った。「ジョー・バー? あのジョー・バーですか?」

マネージャーは愉快になって彼らをSusanのデスクまで連れていき、紹介した。そう、あのジョー・バーはここで働いてました、とSusanが言うと、2人は納得したという。それ以来、彼女は私と私のエゴを行儀よくさせようとするためにこの言い回しを使うようになった。私の思い上がりが過ぎると、「あのジョー・バー」と私を呼ぶのである。

今年の春、あるトレード・ショーで「あなたはあのジョー・バーですか」と尋ねる人がいた。私は笑って、Susanがその言い方をすることを説明してやった。Austinに戻ってLUGでトレード・ショーの報告をしたときに、このエピソードも披露した。

数週間後、LUGで別のプレゼンテーションをしていると、ある新顔が、11才ぐらいの少年だったが、発言を訂正しようと私の話をさえぎった(これは実にうっとおしい。さえぎった人が正しい場合は特に)。

それが二度、三度と続いた後、正しい指摘に逆らえない腹立ちまぎれに、思わず言ってしまった。「きみ、誰に言ってるかわかってるのか?」と。すると、口の悪い出席者があいづちを打った。「そうとも。あのジョー・バーだぞ」別の声も聞こえた。「君にはミスター・あのジョー・バーなんだぞ、小僧!」

その後、私はIRCのニックネームをMtJBに変えた。

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