Hot BabeとDebian:コミュニティ標準のテストケース

Thibaut Vareneには、フリーソフトウェアとコミュニティの標準を巡る議論を始めるつもりなどなかったのである。ところが、彼がHot Babeなる新趣向のプログラムのパッケージ化趣意書をDebian-develリストに投稿したところ、そんな議論にまで発展してしまったのだ。この趣意書は5、6本のスレッドと数百の電子メールを惹起し、論争はいまだに続けられている。Debianのようなフリーソフトウェア・プロジェクトは、性差別やポルノの要素があるパッケージや、そうではないとしても人を不快にするおそれのあるパッケージを受け入れるべきだろうか。それが引き起こす法的措置の矢面に誰が立つことになるのか。

Hot BabeのWebページは、このプログラムをこう説明している。

これはシステムの動作状況をとても特殊な方法で表示する小さなグラフィカル・ユーティリティです。CPUがアイドル状態のときは、服を着た女の子が表示されます。システムの活動が活発化し、CPUの温度が上昇すると、それと共に女の子が服を脱ぎ始めます。システムの動作状況が100%に達すると、完全に裸になります。

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Debianに同梱すべきかで論争になったのは、Hot Babeが初めてではない。多くのLinuxディストリビューションと同様に、Debianにもあの有名なPurity Test(ユーザのセックス、アルコール、ドラッグ体験を問う質問集)が、かなり前から同梱されている。また、過激なおみくじを集めたfortune offも含まれている。Hot Babeに関する議論の中で、少なくとも1人の投稿者はAnarchist FAQをDebianに同梱することに異を唱えた。

しかし、このような議論は今起こるべくして起こったように思えるのだ。Debian内部の議論では看過されたようだが、Hot Babe問題の勃発と時期を同じくして、商用ソフトウェアも同じような詮索にさらされた。米VivendiのLeisure Suit Larry Cum Laude(米Sierra Entertainmentが90年代初頭のアドベンチャー・ゲームLeisure Suit Larryを復活させた現代版)や米Top Heavy StudiosのThe Guy Gameなどの最近のゲームは、コンピュータゲーム界に過激なヌード描写が登場する最初の兆候だと広く考えられている。

Hot Babeと同じように、こういったタイトルは不道徳だと非難されるよりは、むしろ性差別だと糾弾される。多くの人は、こんなゲームに真面目に憂慮するほどの価値はないとあっさり忘れ去る。これらのゲームとHot Babeの主な違いは、一部の販売店はこのようなゲームを店頭に置きたがらないとはいえ、Debianとは違ってゲームの開発元はそういったものを流通させたことで告訴され、法廷で争うことになるとは思えないことだ。

Hot Babe側の反論

Hot Babeのプログラマらは、論争に発展したことが信じられないでいる。最初にHot Babeを書いたプログラマであるDavid Odinは、こんなのは数時間で決着が付く軽い問題だと言う。Vareneの意見もそれに近い。「僕にとっては愉快なソフトウェアってだけさ。みんなも僕みたいに楽しんでくれりゃいいのに」。

Odinによると、Hot Babeには真面目な目的があったそうだ。Hot BabeのキャラクターをデザインしたBruno Bellamyの仕事をみんなに知らせることがそれである。Bellamyはアニメーション作家で、これまでに数多くのゲーム雑誌やLinux雑誌に作品を提供し、さまざまなLinuxやFreeBSDプロジェクトのTシャツやCDラベルを製作した人物だ。彼は自分の仕事のことをよく「ピンナップス」とか「ベラミネッツ」と呼ぶ。Hot Babeに使われたイメージは、彼のコミック・シリーズ”Sylfeline”のメイン・キャラクターに似ている。どちらも、コソボのフランス兵に送られたテレホンカードにプリントされたキャラクターとあまり変わらない。OdinはBellamyを「偉大なアーチスト」であり「自分の知る限り色彩の達人の1人」だと評する。

このプログラムは性差別と受け止められないか、とOdinに尋ねてみると、そのおそれはあると彼は肯定するものの、アートの世界ではヌードなんか珍しくないとも言う。しかも、彼によるとHot Babeのイメージはポルノでもない。フランスでは「ポルノに対する厳密な定義がある。勃起したペニスと、オーラルセックス、アナルセックス、またはストレートセックスが含まれていないと、ポルノとは見なされないんだ」とOdinは言う。Hot Babeのイメージはただのヌードの女性だから、Odinの見方ではポルノの範疇に入らない。たとえポルノだったとしても、彼はWebサイトにコンテンツに関する免責の警告を掲載している。

実際には、この問題はもっと複雑だ。たいていの国と同じで、フランスにもポルノの厳密な定義はない。特定の状況では受け入れ可能なコンテンツであっても、児童の目に触れる可能性があったり、人間の尊厳を冒すものであったなら、フランスの法により受け入れのできないものと見なされる。

それでも、Odinの見解はこの問題の底を流れる文化の差異をよく表している。Vareneはこう言っている。「(フランスでは)こんなたわいのないアニメーションよりよほど刺激的なものが、日常的にテレビや街頭広告に、それこそどこを向いても目に入る」。Odinの言葉からは、ヌードがフランスのほとんどの人に問題視されないことが読み取れる。どんなヌードであれ「良質のジョーク」と受け取られるのだ。この姿勢は、おそらくイギリス人の服装倒錯に対する姿勢におおよそ相当するだろう。このような受け止め方は、北米とは大違いだ。北米では、性的なコンテンツへの異常なまでの執着が見られることも多いが、ささいなヌードでさえ不道徳に対する憤怒から手当たりしだいに糾弾されがちである。

OdinとVareneは最後にこう言った。意見は違うだろうが、自分の価値観を僕らに押し付ける権利など誰にもない、と。要するに、彼らはHot Babeをインストールしろと強制してはいないのだ。Hot Babeには、ヌードの露出度を制限するオプションだってある。

性差別か、ポリティカル・コレクトネスか?

OdinとVareneは、セクシーなキャラクターへのフェミニストからの批判は承知しているが、これを少数意見と見なしているのは明らかだ。これまでのところ、2人がこの批判を相手にすることがあったとしても、ありきたりの道徳的な反論だと考えているらしい。「お上品」というのが、性差別やポルノだと批判する主張を指すためにVareneが使う言葉である。今はまだ、概してDebianコミュニティはHot Babeに対して道徳の点からは反応していない。

率直なところ、性差別だとかポルノだとか非難する叫びによって、ありきたりの道徳的な怒りの声はかき消されることも多い。今の時点では、Debianリストで道徳のレベルから反応している投稿者は一握りに過ぎない。おそらく、道徳心から反対の人々は、意見に賛同を得られそうもないと感じて沈黙を守っているのだろう。この立場がかなり少数であることを示すような気配もあるので、大きな懸念にはならないようだ。

あるレベルでは、性差別を訴える糾弾のやり方はありきたりだ。Debian-Womenリストでは、多くの投稿者が「女性のヌード画像があるプログラムをDebianに含めるのは、ほとんどの女性に対してとても挑発的なことです」と書いたFernanda Giroleti Weidenの意見に賛同する。そして、Matthew Palmerは、ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)に反していると非難した。

ただし、別のレベルでは、議論はありきたりではない。Hot Babeに性差別のレッテルを貼る人々はこの判断を譲る気持ちはないようだが、こういった人々の反応の仕方は身勝手である。たとえば、問題を観念的な言葉で論じる代わりに、Jutta Wraggeは、このような題材が女性をDebianの利用やコミュニティへの参加から遠ざけるのではないか、と心配する。

同様に、このようなプログラムを徹底的に追放すべしと要求する代わりに(対抗勢力はそれを期待しているかもしれないが)、ある者は男性のヌードを追加してパッケージの印象を和らげようと提案した。このような変更をサポートするため、Weidenはイメージ追加の機能をHot Babeに加えるパッチを作成している。本音を言えば、彼女はこの解決策にまったく満足していない。「Debianを男女平等に取り組むプロジェクトに変える責任を、どうして女だけが負わないといけないの?」。続きを引用する。

男の画像を入れたって、このパッケージの色が薄らぐわけじゃない。性差別の問題を解決するんじゃなくて、控えめにするだけ。不平等な人々を平等に扱うのは、そのこと自体が不平等の種になる。男には体を物のように使われた歴史はないし、男の体をさらしたところで、たいして挑発的じゃない。女の体とはわけが違うんだから。男の裸を見せるのは、男にはジョークみたいなもの。女にとってはそうじゃない。

とはいえ、Weidenは歩み寄りの精神でこの変更を加えるつもりだ。他の投稿者は、彼女のパッチを使えば別のテーマ(木から葉が落ちるイメージとか)でCPUの動作状況を表現できるとも提案している。Weidenの歩み寄りの精神にも、「せっかくの名案が満足ではないと侮辱」されたような気分を隠す偽善でしかないと切り捨てる反対意見がある。

パッケージとポリシー

たとえDebianコミュニティが性差別問題を巡って二分されていても、Hot Babeのようなパッケージを同梱した結果起こりうることへの懸念は1つにまとまっている。Joe Wreschnigの次の発言は、Debianコミュニティの多くのメンバーの考えを代弁するものだ。

これ[Hot Babeを同梱すること]について私は道徳や倫理の問題を感じないし、賛否の分かれる題材(宗教や政治に関わる文言など)をDebianに入れることは、それがフリーである限り、いつもどおり支持する。
ただし、ポルノは米国では法的な大問題を招く。おそらくそういう国は他にも多いだろう。このソフトウェアが含まれるDebianのCDを未成年者に渡したら、私はポルノを流布したことになるのだろうか?

コミュニティの標準と定義が国によって違うという事実が、隠れた問題としてここにある。ことによると、米国でも州によって違うかもしれない。そればかりか、この問題は宗教や政治の方面にも広がる可能性がある。

ある投稿者は、Debianのメインセクション(コアシステムとフリーソフトウェアのみで構成される部分)から、誰かを不快にするおそれのある題材をすべて除外して、今回のような問題を防止するべきだと提案した。また、暗号ソフトウェアの輸入に米国政府が厳しい制限を課していた時代に比べると存在価値が薄れた非米国向けアーカイブを、この種の題材の保管場所として復権させるべきだ、という意見も聞かれた。1つだけ問題なのは、そういったセクションはコンテンツのライセンス形態に基づいて定義されており、コンテンツがどのような代物かは考慮されていないことだ。さらに別の意見として、ミラーサイトの管理者はいつでも特定のパッケージを拒否できるのだから、変更など必要なし、とするものもある。

この議論から出てきた最もコンセンサスに近いものは、Debianにパッケージを受け入れるかどうかを判断する社会的なガイドラインを作ろうという提案だ。Debian-develリストの短いスレッドで、そういったガイドラインを定めようとしたが、性差別がないこと、などという基準は十分に正確に定義するにはあまりに主観的すぎると数人の投稿者が指摘した。

このスレッドは、結論に達する代わりに、パッケージが告訴された場合に誰が責任を負うのかという問いを投げ返した。Bruce Perensは、DebianをISPや電話会社のようなコモンキャリアと見なすことはできない、と指摘した。なぜなら、転送する情報をいっさい変更しないのがコモンキャリアだからである。Debianのパッケージは、オペレーティングシステムとの互換性を得るために、日常的に編集されているのだ。

別のスレッドでは、告訴された場合に誰が責任を負うことになるのかは不確かだと、Perensが説明している。Debianが独立組織と見なされるなら、オフィスの持ち主と当のパッケージを管理する人物が主に責任を負うことになるだろう、と彼は言う。ただし、それ以外の貢献者も責任を問われる可能性がある。

DebianがSoftware in the Public Interest(Debianの多くの活動に資金を提供する団体)の一部門であるとされた場合、SPIの役員が責任を負うものと考えられる。自身が役員であるPerensは、この見通しに渋い顔だ。

Perensは、法的措置の可能性に備える緊急事態準備金も提案した。このところ憂慮していたソフトウェア特許の問題が念頭にあったことは間違いない。ただし、これまでのところ、この問題はあまり議論されていない。今のレベルでは、不要という意見が大勢のようだ。

前進

ある程度まで、この騒ぎは過剰反応と言える。たとえば、Helen Faulknerは「時間の無駄、Debianに典型的な論争ね。2週間やそこらの間隔で繰り返される類いの論争(トピックは毎回変わるけど)。こんなときは、Debianに関わるのがしばらく嫌になるわ」と書いた。Debianコミュニティに属する人々にとって、このような反応はそれ自体が問題となりかねない。

ただし、Kalle Kivimaaが次のように指摘すると、問題はもっと大きくなった。

問題は、Debianが表現の自由を標榜していることです。誰かを不快にするという理由でパッケージを排除することを始めたら、表現の自由の理想を傷つけることになります。わずかなイスラム教徒を不快にするからといってBibleパッケージを排除すべきでしょうか? Koranパッケージの追加を、クリスチャンが不快に思うという理由で拒否すべきでしょうか? たくさんの人が多分不快に感じるからといって、fortunes-offパッケージを削除しますか?

同じことは、ほとんどのフリーソフトウェアやオープンソースのプロジェクトにも言える。この両方のコミュニティの精神は、受容を中心とする。あるソフトウェアの寄贈が受容を蝕むと考えられるのなら、その寄贈を排除すべきなのか? それとも、そうすることが本当に重要な価値を蝕むのだろうか?

あるいは、この問題を別の方向から見てみよう。フリーソフトウェアとオープンソースの開発モデルは、プロジェクト全体の利益になるものが寄贈されることを前提としている。プロジェクトの一部のメンバーが、特定のソフトウェア寄贈を利益ではなく損害だと感じ、その理由がコードの品質以外の部分にある場合、どうなるだろうか? 明らかに、簡単な答えはない。

Hot Babeに関しては、そのアニメーションのデザインスタイルと奇抜さを狙った明らかな努力を理由として、満場一致の意見がない、ということがおそらく問題である。それはThibaut Vareneの言葉からもわかる。

さて、成り行きは見ていましたが、明らかなのは、オープンソースモデルの限界についてとても興味深い事例が得られたことですね。なぜこんな爆弾がこれまで破裂しなかったのか不思議に思う人はいませんか。私が思うに、Hot Babeは完全無欠の爆弾だったんです。境界線ぎりぎりで爆発したので、どこに線を引くかがとても難しかったんです。誰の目にも劣悪なものがパッケージ化されていたなら、これほどの議論は呼ばなかったでしょう。

現在、以上のような論争は下火に向かっている。だが、この小休止も一時的なものでしかないようだ。一方では、Hot BabeのアーティスティックライセンスがDebianのフリーソフトウェア・ガイドラインを満たすかどうかが唯一検討すべきことだ(そして満たしている)と、Vereneが言い張っている。他方で、Hot Babeが呼び起こした難問は簡単には消えそうもない。Verene自身が目にしたとおり、単に1パッケージを受容するかどうかには留まらない大事に発展してしまったのである。

原文