「オープンソース」と呼ばないで

「オープンソースソフトウェア」のライセンスは「オープンソースの定義」に準拠している。では、ライセンスが「オープンソースの定義」に準拠していれば果して「オープンソースソフトウェア」なのか?

「オープンソース」と呼ばないで、という時、二種類の状況が考えられる。 「オープンソー スの定義」に即したライセンスが適用されていないのに「オープンソース」 と呼ばれている場合、そしてたまたま「オープンソースの定義」に即したライセンシン グだが、著作権者の意志としてはそう呼んでほしくない場合である。

前者に関しては他で述べたのでここでは繰り返さない。基本的に定義は尊重すべきなので、「オープンソースの定義」にそぐわないライセンスのものをオープンソースと呼ぶべきではない、というのが筆者の一貫した意見である。しかし、後者は論考に値する。

結論を先に言えば、筆者としては、これは基本的には正当な要求だと思う。 ゆえに、もし筆者がライセンシーであれば、著作権者の意志を極力尊重するし、 彼のソフトウェアを「オープンソースソフトウェア」と表現することもない。 ちなみに、筆者は多くの場合、個々のソフトウェアを「オープンソースソフト ウェア」などと総称せず、例えば「GNU GPLが適用されたソフトウェア」「BSD ライセンスが適用されたソフトウェア」などと具体的に適用されたライセンス を冠し、事実関係のみを述べるようにしている。異なった由来のソースコードを混 ぜるとライセンス間の矛盾が発生する可能性があるので、本格的に(外部への リリースを前提とした)ハックをしたければどのみち個々のライセンスまで立 ち入る必要があるからだ。余計な混乱を招かずに済むので、個人的には皆さん にもこのような態度をおすすめしたい。

とはいえ、著作権者とライセンシーの関係は、基本的にはライセンスに記 載された条項によって決まる。ゆえに、ライセンスに「利用するならオープン ソースと呼ばないこと」という旨が書いていない限り、ライセンシーたるユー ザが彼のプログラムを「オープンソース」であると表現しても、何も文句を言 うことができないと筆者は思う。もちろん「お願い」することはできるし、筆 者のようにそれを受け入れるライセンシーもいるだろうが、そうしないライセ ンシーを強制的に排除することは、「オープンソースの定義」に準拠したライ センスを採用している限り不可能である。

したがって、どうしても「オープンソース」と呼ばせたくなければ、ライ センスにおいてその旨書いて(違反による契約終了があり得るという形で)一定 の強制力を担保しておく必要がある。ところが、このような条件をライセンス に入れると、当然「オープンソースの定義」に抵触するので、そもそもオープ ンソースとは呼べなくなる。これはこれで良い、という人と、そこまでしたく はない、という人がいるだろう。

一見妙な事態のように思えるが、これに似た事態は最近そこかしこで 起こっている。例えば最近では、個人的にこっそり書いていたウェブ日記に外 部からリンクを張られ、結局日記をやめてしまう、といったことがあるらしい。 基本的には、ウェブにおいてリンクを張るのは張る人の自由であって、リファ ラではじくなど技術的に可能な対策を採らなかった書き手が悪い(そもそもな ぜウェブで日記を書こうと思ったかも一考に値する)のだが、同情する余地は ある。そこで、あえてリンクを張らずにそっとしておいてやる、というのもひとつの「モラル」としてはありうるだろう。

筆者は社会学に明るいわけではないので、そう呼ぶのが本当に適切なのか 分からないのだが、話によるとこれは社会学者ゴフマンの提唱した「儀礼的無 関心」という概念に近い例だと言う。とすると、本稿で扱っているような「ラ イセンスでは規定されていないがあえてオープンソースと呼ばない」という行 為も、「儀礼的無関心」の一例として考えられるかもしれない(「儀礼的無関 心」については以下の リンク集が大変参考になる)。こういった「モラル」の推奨に、オープン ソースのより一層の普及に資するところがあれば、それはそれで意味があるこ とだと考えられる。

しかしながら筆者の考えでは、この種の問題で本当に大きな問題となって いるのは何かというと、ようするに「オープンソース」という言葉に良かれ悪 しかれ過剰な意味づけをしている人々が存在するということである。困るのは、 オープンソースを批判する向きのみならず、擁護する側にもおかしなことを言 う人々がいるということだ。オープンソースというのはソースコードが「オー プンソースの定義」で規定された特定の状態に置かれているというだけのこと であって、社会改革運動でもなければ何でも出てくる魔法の小槌でもない。自 分が書いたコードの断片を、「オープンソースの定義」に準拠したライセンス の下で公開すると、突然「オープンソース運動」(というのがそもそも人によって 指すものが違うので個人的にはさっぱり分からないのだが)とやらの闘士になってしまうというのは、筆者でもごめんこうむりたい。

「オープンソース」のよいところは、倫理的に正しいから、あるいは世の ため人のためになるからともかくやるんだ、などという著作権者の積極的なコ ミットメント、端的に言えば自己犠牲を必ずしも必要としないという点にある。基本的に、自分の書いたものを「オープンソース」にするというのは、自分の得になると考えられるからそうするのだ。自分が納得できない事柄に無理にコミットする必要はない。本当はそうしたくないのに、自分が権利をもつ部分に関してライセンスを無理矢理「オープンソースの定義」に合わせるなどというのは本末転倒であろう。筆者自身は「オープンソースの定義」で規定されたくらいの「自由」がユーザに認められていないといろいろ不都合があると思っているが、別に皆さんが無批判にそれを受け入れる必要はないのである。もちろん高貴な利他の信念に突き動かされて行動したり、さすがにそこまでいかなくても損得抜きで自分の努力を「おすそわけ」したいという人がいてもよい。動機や内面は、それこそ個人の自由であり、他人が容喙すべきことではない。

こういった理解を普及させるためには、これまで以上にオープンソースの正しい意味と定義について粘り強く説明していかなければならない。そうして妙な意味づけをじょじょに無くしていけば、不必要な抵抗感を持つ人もいなくなるだろう。そうなれば、そもそもこの種の問題を論じる必要さえなくなるだろう。