著作権の終焉

先週、米Nullsoftの創立者Justin Frankelが、GPLライセンスの下にWASTEという名のコラボレーション・プログラムを同社のWebサイトにひっそりと公開した。Nullsoftは、ポピュラーな音楽再生ソフトウェアWinampの開発元として知られ、米AOL Time Warnerの傘下にある。Frankelがこのソフトウェアを公開した次の日、AOLはソフトウェアをサイトから削除することを命じ、代わってこのソフトウェアに対する同社の権利を主張する但し書きを掲げた(この一件からまもなく、Frankelはこの措置を理由にNullsoftを離れるつもりだと語った)。

しかし、入手が可能だった短い期間に、掲載されたサイトもろともソフトウェアはインターネット上の第三者によってダウンロードされ、この今は亡きサイトの ミラー が立ち上げられ、誰でもソフトウェアをダウンロードして試せる状態になっている。

このミラーサイトにユーザは来るだろうか。ご安心なく。結果は近いうちにここでお伝えするつもりだ。それはそうと、こういった行為は許されるのだろうか。一筋縄では答えられない疑問だ。

今回の一件では、もしソフトウェアを公開する法的な権利が最初からNullsoftにあったのなら、ユーザは自由であり、潔白である。GPL宣言の6節にはこう書かれている(日本語訳より引用)

あなたが『プログラム(または『プログラム』を基にした著作物全般)を再頒布するたびに、その受領者は元々のライセンス許可者から、この契約書で指定された条件と制約の下で『プログラム』を複製や頒布、あるいは改変する許可を自動的に得るものとする。あなたは、受領者がここで認められた権利を行使することに関してこれ以上他のいかなる制限も課してはならない。あなたには、第三者がこの契約書に従うことを強制する責任はない。

しかし、Frankelがプログラムを公開した時点で、Nullsoftは著作権を保有していなかったので、法律は味方にならない。第三者がこのプログラムを使うことは、著作権法で認められない。これと同じ理屈で、著作権のある楽曲をKazaaまたはGnutellaからダウンロードしたり、誰かがalt.tasteless.picturesにアップロードした著作権付きの画像をダウンロードすることも著作権法違反だ(面白いことに、Gnutellaの最初のバージョンをリリースしたのはNullsoftである。そして、それをすぐに削除させたのもAOLだった)。

しかし、現実には、そうとは知らないまま著作権のあるデータをダウンロードして自分のハードディスクに保存してしまうことはあり得る。あなたにその経験がなくても、あなたの隣人の中にはいるかもしれない。実は、著作権が抑止効果を持つのは、それを侵害するために乗り越えなければならない壁が、平均的なユーザまたは読者には越えられないほど高い場合に限られるのである。書籍を印刷するために印刷機と熟練植字工を使うとなると、海賊出版に手を染めて安穏とできる者はいない。告訴される恐れがあるからだ。しかし、壁が低くなると、とたんに著作権は抑止力として働かなくなってしまう。

速度制限が良い例だ。あなた自身は高速道路を時速120kmか150kmで走った経験はないかもしれないが、日常的にこの法を破っている人の数は何人に上るだろうか。

規制はスピード狂に自覚を促すのに役立つが、デジタル権利には功を奏しない。著作権の侵害は、見えない場所で、個人の行為として、警備活動ではとても沈静化できないほどひっきりなしに行われる。

法的な解決策が解答にならないのなら、技術な解決策はどうだろうか。これは、米Microsoftが Next-Generation Secure Computing Base でやろうとしていることだ。しかし、自分のPCにあるファイルに対してどういった権利を持つかを第三者に決めさせることに消費者が賛成するとは思えないので、NGSCBは最初から失敗する運命にあると思われる。消費者は財布の中味と相談して、制限のないクライアントを選ぶだろう。Microsoftと開発パートナー米Intelが完全な独占体制を築かない限り、同等の技術がNGSCBを葬り去るはずだ。

法律や科学を頼りにしてデジタル権利を強制できないのであれば、作家、アーチスト、ミュージシャンはこの時代にどうやって生計を立てていけばよいのだろう。

新しいパラダイムが求められる

人々が正しいことをできるようにするメカニズムがあれば、良い方向に進むだろう。創造的なプロフェッショナルが自分の作品から利益を得る権利を持つことに、たいていの人は異論を持たないし、彼らの生活の糧を盗み取りたいとは思わないものだ。

もし書籍をダウンロードし、ハンドヘルド・デバイスを使って読み、その後で削除できるのなら、 作家 が出版社から現在支払いを受けているのと同じ金額(書籍の店頭価格よりはるかに低い金額)を支払うことに、私はやぶさかでない。作家のダウンロード・ページにPayPalの小さなボタンを用意すればうまくいくだろう。現在は例外として行われているこの取り組みが支配的となれば、出版社は消滅するほかない。編集者は、出版社からではなく作家から報酬を得ることになる。

Webサイトで見つけた版画を手に入れるためなら、私は喜んで アーチスト に代価を支払い、美術商やギャラリーのオーナーの懐に100%のマージンが入らないようにするだろう。

また、同じ機能を持つほかのプログラムより優れた性能を持つオープンソース・ソフトウェアがあれば、私は喜んでそれに代価を支払う。

新刊の販売促進にあたる広告代理店がないとしたら、批評家と雑誌編集者が果たす役割は重要だ。編集者は作品を吟味し、最も注目に値すると感じた作品の紹介に力を入れる。購入者が作品に関して意見を交換できるWebサイトも重要だ。

インターネットの偏在性を利用して創造的なプロフェッショナルを助けることができると同時に、こういった人々に新しい収入の道を開くこともできる。興行の分野では、多年に渡って タイアップ広告 が制作費を補うのに一役買っている。この発想が 小説 に広がったのはそれほど前のことではないが、文壇からの猛烈な反発は避けられなかった。個人的には、宣伝広告に毒されていない作品が好きだが、著作者が節操を捨て実利に走ることも理解できる。

World Wide Webという形をとったマスメディア利用の民主化により、多くのビジネスの様相が変わり、ほかのメディアが勢いを失い、新しい職業形態が生み出されている。オープンソース・ソフトウェア開発者の経験が、向かうべき方向をもっと大きなコミュニティに示すかもしれない。 Creative Commons ライセンスが、数年後の将来に著作権の自然な後継者となっていてもおかしくはない。