「著作権侵害フリー」とフリー/オープンソースソフトウェア
後者の解釈には欠点がいくつかある。一番重要な欠点は、著作権侵害が広がると(今、私が生活しているブラジルもそうだ)、ソフトウェア使用にかかるコストをほとんどの人が無視するようになることだ。財務コストだけではない。関連するソーシャル・コストも無視されてしまうのだ。その最も明白なコストは、人々が頭の上に法的ギロチンを突きつけられたまま生活しているということだ。2つ目の欠点は、著作権侵害に真剣に取り組んでいないとして、こうした開発途上国が国際社会の場でやり玉に挙げられることだ。3つ目は、著作権侵害のソフトウェアが広く普及した場合、フリー/オープンソースソフトウェアの実現が難しくなるということだ。ただし、こうした社会がそれぞれの技術ニーズにあった根本的な解決法を見つけるのは不可能ではない。
Microsoftの世界市場での占有率をライセンス・コピーだけで算出すれば、おそらくデスクトップ・コンピュータの50%以上は不正コピーされたものと判明するだろう。Microsoftのライセンスを購入する余裕がない社会こそ、フリーオペレーティングシステムやフリーソフトウェの恩恵に預かるべきだ。その見返りは、違法行為から決別できることだけではない。教育の面でも有効なのだ。フリー/オープンソースソフトウェアは、既存のソフトウェアを固有の状況と問題に適応させる過程を通して、考える力を刺激し、地域の開発力を高めるからである。
Microsoft製品の理念は、ソフトウェアとハードウェアの複雑さをエンドユーザからも開発者からも隠すことである。Microsoft製品を長く使い続けると、考える力がそれだけ衰える。DOSの時代を振り返ってみれば、コンピュータ・ユーザはだれもがconfig.sysとautoexec.batを編集しなければならなかった。その処理を通して、ドライバやハードウェア機能などを学んだものだ。今や、Windowsレジストリを完全に理解したうえで、システムの修正や改善に必要なレジストリをいじれるのは、Microsoft認定エンジニアだけかもしれない。Windowsユーザは、システムで問題が発生したら、データをバックアップし、ハードディスクをフォーマットし、最初からすべて再インストールしている。開発者側に対しても、Microsoftは「愚民化」に成功している。Microsoftのドッグ・フードを食べて育った人よりも、UNIXプログラマの方がはるかに優秀であるとはだれも気付かなくなるだろう。Microsoftの最終目標は、マウスだけを使って見事なソフトウェアを作成できると人々に思い込ませることなのかもしれない。「どのキーを打てばよいのか悩むことはない。ましてや時代遅れのプログラム言語の訳の分からない構文規則などとはおさらば」というわけである。visual何とかかんとかという、Microsoftの開発製品の名前を目にした人は、コンピュータを眺めるだけでソフトウェアを開発できるのかと考え始めている。
途上国と先進国との本当の技術ギャップは、技術について考える力だと言える。技術を利用して、新しい技術を構築し、同時にその過程について学ぶ力のことだ。これは、著作権侵害フリーからは得られないものである。
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