多元化する「フリー」

「フリー」を巡るFSFとDebianの論争が一部で波紋を呼んでいる。ある時期までは一心同体だった両者に何が起こったのか。 両者の衝突は、フリーソフトウェアの「フリー」を誰が定義するのかという問いへとつながって行く。

ソフトウェアの世界において「フリー」とは何か、はじめて明確に定義したのはリチャード・M・ストールマンと彼が率いるFSF(フリーソフトウェア財団)である。ストールマンが登場する前にも、事実としてフリーなソフトウェアは存在していたが、そういった曖昧な「何か」に「フリーソフトウェア」というはっきりした名前を与え、さらにフリーソフトウェアが満たすべき4つの自由を明示的に示してカテゴライズしたのは紛れもないストールマンの功績だ。

以来、EmacsやGCCといった優れたGNU ソフトウェアの存在を背景に、顧問として法律と技術両面に精通した法曹家たちを擁したFSFは、主にGNU GPLなどのライセンスを発表することによってフリーソフトウェアのいわば「フリーネス」を決定する主体であり続けてきた。言い方を変えれば、これまでストールマンとFSFは、あるソフトウェアが「フリー」であるか否かを判定するほぼ唯一の存在として、ある種の権力を握ってきたとも言える。その一つの現れが、FSFによるライセンスの分類だ。

しかし最近になって、FSFが発表したあるライセンスが「フリーではない」と宣告し、FSFの権威に真っ向から挑戦する団体が現れた。しかも、その団体というのが、直接的な関係は切れて久しいとは言えプロジェクト立ち上げ当初にはFSFから資金援助まで受けていた、いわば身内だったので騒ぎが大きくなっている。すでにお分かりの方もいるように、その団体とはDebian GNU/Linuxを開発しているDebian Projectだ。

ことの発端は、FSFが2000年に発表したドキュメント向けライセンスのGNU FDLである。このライセンスには、GNU FDLが適用されたドキュメントには「Invariant Section」あるいは「Cover Text」を設定してもよいというオプション条項が含められていた。これらによって、ドキュメント内の改変されたくない部分をInvariant、すなわち「改変不可」にすることができる。もちろん無制限に改変不可を設定できるわけではなく、宣言できるのは技術的な内容を含まない思想信条などを表現した部分に限られてはいるのだが、それでも文字通りに取れば、ライセンスによる「ソフトウェアの」修正容認を必須とするDFSG(Debian フリーソフトウェアガイドライン)に抵触してしまう(議論そのもの を追いたい方は、 このあたりから読み進めると良いだろう)。

ところで「ソフトウェアの」、とかっこでくくったのには意味がある。FSF側は、ドキュメントにはソフトウェアとは異なる基準が適用されるべきだと 主張しているのだ。FSFのウェブページにある文書の大半には、形式的な改変は認める、ただし意味内容をいじらない範囲で、というライセンスが適用されているが、このことからも分かるように、FSFの姿勢は実に首尾一貫している。ライセンスの文面に欠陥があるというたぐいの問題であれば今までにもあった話で、深刻ならば修正すれば良いだけの簡単なことだったのだが、今回は残念ながらそうではない。スタンスが根本的に異なるのである。

筆者は諸般の事情によりFSFとDebianの両方に足を突っ込んでいるので微妙な立場なのだが、現時点では、Debian側の論理に軍配が上がると考えている。改変してはならない部分くらい改変する側で見分けがつくので、ライセンスで制限するようなことではない、という楽観的な考えからだ。しかし、FSF的な論理も理解できなくはない。筆者としてはこの問題は、根本的には「プログラムとデータを見分けることができるか」という問いに帰着されると思うのだが、今更フォン・ノイマンに文句を言うわけにもいかないので、なかなか難しい問題である。これは場を改めて考えることにしたい。

最後に付け加えると、筆者はどちらかというと今回の騒動はオープンソースの世界全体にとっては好ましいものと捉えている。少なくとも今までは、FSFが大きく間違った判断をしたことはないと思うが、FSFがフリーソフトウェア/オープンソースの世界である意味特権的な地位にあることは間違いない。今回の騒動が、Debianという外部からの挑戦を受けて、恣意性を排除した頑強な概念としてフリーネスを鍛え直す契機となれば良いと思う。特に、来るべきGPLv3策定に当たっては今回の経験が生かされるはずだ。