ised@glocom講演のお知らせ

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来たる2/12(土)の15:00から、六本木の国際大学GLOCOMにて、下記のような内容の講演を行います。本来11月が私の当番だったのですが、諸般の事情により予定が大幅に早まりました。

内容的には、これまでOpen Source Way 2004などでお話してきたような個別の細かい議論にはあまり踏み込まず、今までとは多少違った切り口から事象としてのオープンソースを眺めてみたいと考えています。プロパーのソフトウェア技術者の方だけではなく、オープンソースから何か社会的な文脈での含意を引き出したいという人文系・社会科学系の方々にも楽しんで頂ける内容とするつもりです。

講演題目: 『オープンソースの構造と力』

概要:

いわゆるオープンソースに関して、無私無欲で献身的なプログラマたちが無償で自発的に協力しあっているのだ、だから素晴らしい、というような言説が、未だまことしやかに語られることが多いようです。

確かにそういう面もある、あるいはあったのかもしれません。それは否定しませんが、私にはこのような理解が必ずしも現状を正確に反映するものとは思えないのです。プログラマも人間ですから、往々にして利己的で偏狭かつ限定的な合理性しか持ち得ない存在です。また、最近では競合他社と日夜鎬を削る営利企業も参加しつつありますから、オープンソースに関わる主体が利他的であると決めつけて考えるのにも無理があるでしょう。

私は、もしオープンソースに何らかの意味で「驚異」が存在するとすれば、それはプログラマたちの麗しい協力の神話でも疑似共産主義の転生でもなく、利害や目的、あるいは能力が必ずしも一致しない参加主体が、それでもなお協力という選択肢を選ぶことがあるということ、そしてそういったことが可能な状況が維持されているという事実そのものではないかと思います。しかし、当然ながらオープンソースでは、参加主体に対して強制的にある行動を強要できるような強力な「独裁者」は存在しません。いたとしても、他者の要望を極力汲むような「優しい独裁者」だけなのです。

では、オープンソースにおいて参加主体の意思決定に影響を与え、彼らのふるまいを間接的に規定し、ある線に沿った行動を採らせているのはいったい何なのでしょうか。例えば、著作権によって広範な権利を認められているはずのソフトウェア作者が、「優しい」独裁者に留まらざるを得ないのはなぜでしょうか。

本講演ではいくつかの具体的な事例を通して、著作権という法制度を強制力の拠り所とした一群のオープンソース・ライセンス、あるいはそのようなライセンスの中で規定された個々の利用条件をさらにもう一段上のレベルで規定する「オープンソースの定義」が、総体としてある漠然とした活動の「場」を形成し、設定しているという主張を行ないます。それを仮に「オープンソースの構造」と呼びましょう。

「普及や流通の促進は善」という価値観を中核に持つこのような構造が、「バザール型開発モデル」と呼ばれるインターネット時代に即したソフトウェア開発のスタイルに影響を与え、あるいはそれを実質的に可能としているのではないか。空想やスローガンではなく、主体間の協力を実質的に容易としているのではないか。オープンソースの「力」とは、実はこのような「構造」と表裏一体の関係にあるのではないか。

以上のような発想を論証することが、本講演の基本的な目的です。レッシグや東浩紀氏の用語を借りれば、「アーキテクチャとしての」「環境管理型権力としての」オープンソースという理解を打ち出してみたいのです。その過程で、おそらく近接概念としての「コピーレフト」にも簡単に触れざるを得ないでしょう。余裕があれば、オープンソースというひとつのケーススタディから、正当化しうる「環境管理型権力」とは一体どのようなものなのか、いくつか条件を抽出して皆さんとの議論に供してみたいと考えています。

この概要を読んで、もうすでにいろいろ指摘したくてうずうずしている方も多々いらっしゃるとは思いますが、ここは一つぐっと我慢して頂いて、2/12に六本木まで足を運んで頂ければと思います。皆さんとの侃々諤々の議論も含めて私の「講演」としたい、というのが希望です。なお、聴講するにはオブザーバ申し込みというのをしなければなりませんが、詳しくはised@glocomのサイトを見てください。