LUGに存在意義がある理由

Joe Barrの記事「今日のLUGの意義を考える」を読んだ日と前後して、地元の町に新しいLinuxユーザグループ(LUG)が設立されたことを知らせる電子メールが届いた。私はこの記事を念頭に置き、Linuxやオープンソースではなくフリーソフトウェアの支持者という観点から、このグループの最初と2回目のミーティングに出席した。そこでの経験からわかったが、LUGには今でも意義がある。理由こそ以前とは違うが、その存在意義はおそらくこれまでより大きい。

仕事の都合で欠席したことも多かったが、90年代末から数年前まではSydney Linux Users Group(SLUG)のミーティングにかれこれ10回以上は出席した。このSLUGミーティングでの体験は圧倒的だった。100人を優に超える人々が大学の講堂を(ときには2つも)毎月埋め尽くし、交流を深めたり問題や解決策を分かち合ったりしたのである。見た感じは平凡な大学生だが、実はフリーソフトウェア界の有名人だという講演者のプレゼンテーションにも聞き入ったものだ。

Jeff Waughのプレゼンテーションのおかげで、GNOMEとKDEを嫌悪する人間だった私は、KDEだけを嫌悪する人間へと一夜にして宗旨替えした。LDAPのかっこよさを説くAnand KumriaのプレゼンテーションをSLUGで見なかったら、OpenLDAPサーバを実際に稼働させるには至らなかったはずだ(かっこよさは、LDAPの隠れた長所なのだ)。求める答えがGoogleで得られない場合、私は未だにSLUGメーリングリストを頼りにしている。

ソフトウェアパッケージがうまく使えなくて困ったときに、その開発者の1人をSLUGメーリングリストに発見したことは一度や二度ではない。仮にMicrosoftのほとんどの開発者の名前が開示されていたとしても、「あ、この人知ってる!」と叫んで電子メールを送って問題を解決できる可能性など微々たるものだろう。コミュニティは、箱に入れられてラップされてショップで売られているものではないのだ。

フリーではないコンピュータユーザグループ:醜悪極まりない集団

2年前、シドニーから人口7万人にちょっと欠ける町に引っ越してきてわかったのは、ここでフリーソフトウェアユーザグループを見つける、または結成することは相当な難事業だということだ。地元にはすでにグループが1つあったが、メンバーは広大な(少なくとも都会育ちの自分には)地域に散らばっており、定期ミーティングは希望者がいないことから長らく途絶えていた。私はLUGメーリングリストで得たアドバイスに従い、地元にある2つのコンピュータクラブに参加して、どちらかで賛同者を募って新しいグループを結成することに希望を託した。

すぐに壁にぶち当たった。どちらのグループも存続するだけで四苦八苦だったのだ。一方のグループは、メンバーの減少がレッドゾーンに達していた。あるとき、私はGIMPを使った画像レタッチのプレゼンテーションを催した。やってきたのは、クラブの会長と私だけだった。勇気を奮い起こして、カラーバランスを修正し、赤目を補正する方法を私は実演した。ところが、会長は色盲だというのだ。赤目の補正方法がわかってうれしいことはうれしいが、あいにく違いはさっぱりわからない、という。

もう一方のクラブには、常に50人以上のメンバーがいた。問題は、本当の常連を除いて、その50人が翌週には入れ替わってしまうことだ。不要になったコンピュータを親戚から譲り受けた定年退職者が、ミーティングに2、3回顔を出して基礎を身に付ける。すると、もう二度と来なくなる。

ミーティングで誰かが討論のテーマを発表すると、自分は興味がないと言って数人が帰ってしまう。聴衆を引き止めとうと急遽テーマを変えたこともあったが、今度は別の数人が出ていくだけだった。万人を喜ばせるテーマなどありっこないのに、論議の方向が変わるまで15分の退屈を我慢しようとは誰も思わないのだ。

SLUGミーティングの心地よいコミュニティの精神からこれほどかけ離れたものを、私は想像できない。総合コンピュータユーザグループで展開される下らない利己的な駆け引きに至っては、ここで語る気にもならない。人間の大半は救いがたいほど自己中心的で非協力的なのだと切り捨てたい気分だが(若干の幸運なLUGのメンバーを例外として)、私が思うに、ここにはもっと見えにくいものが作用しているのだ。つまり、フリーソフトウェアやオープンソースのコミュニティの外では、対等の個人から成る自助コミュニティという概念を、ほとんどの人が本当には理解できないのではなかろうか。

コンピュータグループの参加者で出費を惜しむ人は、まず見かけない。実際、コーヒー代、ビスケット代に喜んで入り口で2ドル払う人ばかりである。対価を支払いサービスを受ける関係が居心地よく、当たり前に感じるらしい。あるときなど、無報酬で開いていたコンピュータトレーニングクラスにけっこうな金額の講習料を設定するべきだと言われた。そんな費用など必要ないにもかかわらずだ。無料で得られるものに価値があると人は思わない。フリーソフトウェアやオープンソースの支持者にはお馴染みの問題である。

誰もが対等に参加し、誰もが貢献を奨励されるコミュニティという概念は、これとまったく異質だ。おそらく苦痛でさえある。人は、まるで自分がまったくの無知であり、底なしの阿呆だと公言したいようだ。そして、どちらでもないときにその宣言の声は大きくなる。そのため、”for dummies”本が人気を集め、なんらかの能力を活かして広い世界に関わる人の数は、商品とサービスを受け取るだけの消費者の数ほど増えないのである。「僕が人を助けるなんて。教えられることなんてないですよ!」

このような現象がなぜ生じるのか。これは面白い研究テーマだ。政治学者Robert Putnamは著書『Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community 』の中で、政党の党員からスポーツクラブの会員に至るまで、あらゆる種類の社会活動、市民活動への参加率が急減していると指摘する(米国での観察だが、西洋社会全体が同じ傾向にあると推測される)。だとすれば、LUGはどこへ向かうのだろうか。

Club Linux

20世紀のLUGは、ハードコアなギークのために、ハードコアなギークによって主に運営された。オーストラリアのCoffs Harbourで活動するClub Linuxも、そのモデルを超えないだろう。反発を承知で予測するが、オールギークのLUGはもうじき希少種になる。

ユーザ層の変化を示す証拠は、名称の選択を見るだけで得られる。読者は驚くかもしれないが、一般市民の多くは頭文字の語呂合わせを不快に感じるのだ。最初のミーティングで、”Club Linux”はぴったりのネーミングだとはっきり審判が下った。

Club Linuxは大学のキャンパスで発足したわけでもないし、多くのメンバーは研究者やプロの開発者としてコンピュータを利用するわけでもない。これまでクラブに参加した人のほとんどは、ITとはあまり縁がない業種からの定年退職者で占められる。コンピュータを使うのが初めてで、Windowsシステムでさえ経験がないという人も多い。

Club Linuxのミーティングは、GNU/Linuxベースシステムを販売、サポートする業者の敷地で開かれる。OpenPC Labsを経営するDavid Chapmanは、Linuxを長年愛用し、最近になってフリーソフトウェア専門のビジネスを始めた人物だ。Club Linuxを立ち上げたPeterは、Davidの顧客の1人である。あるとき、彼は定番の問題をひととおり抱えた使い古しのWindowsシステムを手にして、OpenPC Labsを訪れた。Linuxに切り替えた後のことを、Peterはこう振り返る。「Windowsをやめてから、しばらくは苦労しましたよ。元に戻したいと思ったことも、しょっちゅうで」。彼は、染み付いたプロプライエタリソフトウェアの習慣を払拭する努力をサポートするため、ユーザグループの立ち上げを決意した。

Peterにとって、彼の新しいコンピュータシステムをサポートする専門的なサービスが自宅のすぐ先に存在することは、ユーザグループの存在意義を否定しない。「すべてのお膳立てを整えてくれる人を有料で頼むのは簡単ですが、それでは自立は学べないんです」

自立自由コミュニティは、Club Linuxに参加する、ほとんどは技術系ではないユーザが再三再四にわたって問いかけるテーマだ。60才のメンバーTerryが言う。「自分の力で解くのがいいんですよ。他の人と知識を共有するのが面白い。誰かがした質問の答えを自分が知ってるとわかるのは、なかなかいい気分です」

コミュニティ

Club Linuxは、音に聞こえる成功を収めるかもしれないし、一瞬の打ち上げ花火に終わるかもしれないが、議論を先に進めるため、フリーソフトウェアがメインストリームに進出するにつれて、その周囲にあるコミュニティも成長し、メインストリームに近づいていくと仮定しよう。そのような変化は何をもたらすだろうか?

歓迎すべき結果として1つ挙げられるのは、大勢のコンピュータユーザ ─ これまではパーソナルファイアウォール、アンチウイルス・アップデート、得体の知れないブラックボックスのソフトウェアパッチをただ一方的な信頼関係に従って受け取るほかなく、それらの保守に忙殺されていた ─ が、その労力をコンピュータの使用方法の習得や、新しく手に入れた自由の享受に向けられるようになることだ。

もっと刺激的な未来さえ思い浮かぶ。フリーソフトウェアコミュニティを動かす原理である自由の思想が他の分野にも影響して「フリーカルチャー」運動(そしてTim O’Reillyの予測する近い将来の「フリーデータ」運動)を生むのと同じように、人々は自分の属するLUGのコミュニティ精神と、自由と協力を通じた自己能力開発の気風を他の分野にも浸透させ始めるだろう。

最小限の対人スキルしか持たないと決め付けられる人々によって始められた運動が、市民生活における社会参加を大々的に生まれ変わらせ、社会の健全性を向上させる変化をもたらす触媒へと変貌するのを目にすることには、皮肉な充足感がないだろうか?

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